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<本文から>
良順は、慶喜の臨時の主治医としてその後一カ月、滞京した。
この経験は、良順を変えたとまではいえなくとも、かれの精神の肉質を強くしたようでもある。
第一に、これまでの良順は蘭学と医学を学ぷのに精一杯で、政治に関心がなかったし、よくわからなくもあった。もっとも滑稽なことは、京にきてから、
(幕府は亡びかけているのか)
という平凡なことを知ったことであった。この危機意識は幕府部内で先見性をもった官僚ならみな感じているようなことで、良順はまことに初心であったといわぎるをえない。
が、ふしぎなほど焦りは感じなかった。焦りとは、どうすれば亡びずに済むかという方法や活路を考える−素人政論家になる−ということであったが、良順にはそういう気はなかった。
この点、良順ほど単純な精神をもった人間もめずらしかった。
(この舶と一緒に沈めばよい)
あっさり覚悟してしまったふしがある。
ただ良順も願望があった。亡びるものなら、日本国をヨーロッパなみにしてからほろぴればいい、ということで、できれば医者の質や医療制度がそうなってほしいと思うのだが、しかし一介の医官にすぎない良順の力ではどうにもならない。
点順は、毎日、似殻邸に通っている。
慶喜が二条城にゆく場合、ときに控えの閑に詰めていることもあった。慶喜は血眼を人間としても気に入ったようであった。しかし互いに政治の話はしない。
ゆらい、幕府の医官は政治の話柄を避ける。心得という以上に、それが徳川家の法的な慣習とされてきたのは、職掌柄、将軍や大奥の女たちにじかに接するため、診察中御政道むきのことを囁いたり、表役人の人事に触れたりすることは、弊害が大きいとされてきたのである。
が、慶喜の側近のひとぴとの話が耳に入ったり、大日付の岡部駿河守が情勢をときに穏健的に話してくれるために、耳だけは肥えた。
良順は、それ以上に政治家としての慶喜の人間につよい関心をもった。
明治後、慶喜ぎらいの旧幕臣のひとりが、
−百才あって一誠なし。
と酷評したが、良順はそうは思わなかった。ただ、
(この人は幕府を中興するか、つぷすか、どちらかだな)
と思った。もし幕府の命脈が尽きようとしているなら、中興の可能性はなく、つぶすほうにちがいない。慶喜はその祖の家康のような鈍重さがなかった。鈍重さという虚心を持たない才知は、結局はつぷすほうに拍車をかけることになるかもしれない。 |
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