司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          胡蝶の夢 3

■滅びかけている幕府と沈む覚悟

<本文から>
  良順は、慶喜の臨時の主治医としてその後一カ月、滞京した。
 この経験は、良順を変えたとまではいえなくとも、かれの精神の肉質を強くしたようでもある。
 第一に、これまでの良順は蘭学と医学を学ぷのに精一杯で、政治に関心がなかったし、よくわからなくもあった。もっとも滑稽なことは、京にきてから、
(幕府は亡びかけているのか)
 という平凡なことを知ったことであった。この危機意識は幕府部内で先見性をもった官僚ならみな感じているようなことで、良順はまことに初心であったといわぎるをえない。
 が、ふしぎなほど焦りは感じなかった。焦りとは、どうすれば亡びずに済むかという方法や活路を考える−素人政論家になる−ということであったが、良順にはそういう気はなかった。
 この点、良順ほど単純な精神をもった人間もめずらしかった。
 (この舶と一緒に沈めばよい)
 あっさり覚悟してしまったふしがある。
 ただ良順も願望があった。亡びるものなら、日本国をヨーロッパなみにしてからほろぴればいい、ということで、できれば医者の質や医療制度がそうなってほしいと思うのだが、しかし一介の医官にすぎない良順の力ではどうにもならない。
 点順は、毎日、似殻邸に通っている。
 慶喜が二条城にゆく場合、ときに控えの閑に詰めていることもあった。慶喜は血眼を人間としても気に入ったようであった。しかし互いに政治の話はしない。
 ゆらい、幕府の医官は政治の話柄を避ける。心得という以上に、それが徳川家の法的な慣習とされてきたのは、職掌柄、将軍や大奥の女たちにじかに接するため、診察中御政道むきのことを囁いたり、表役人の人事に触れたりすることは、弊害が大きいとされてきたのである。
 が、慶喜の側近のひとぴとの話が耳に入ったり、大日付の岡部駿河守が情勢をときに穏健的に話してくれるために、耳だけは肥えた。
 良順は、それ以上に政治家としての慶喜の人間につよい関心をもった。
 明治後、慶喜ぎらいの旧幕臣のひとりが、
  −百才あって一誠なし。
 と酷評したが、良順はそうは思わなかった。ただ、
 (この人は幕府を中興するか、つぷすか、どちらかだな)
 と思った。もし幕府の命脈が尽きようとしているなら、中興の可能性はなく、つぶすほうにちがいない。慶喜はその祖の家康のような鈍重さがなかった。鈍重さという虚心を持たない才知は、結局はつぷすほうに拍車をかけることになるかもしれない。

■新選組にのめりこんだ

<本文から>
 良順は、新選組にのめりこんでしまったらしい。
 数日経った午後、副長の土方歳三が、配下の者二人をつれて本願町の宿にむかえにきた。先日、例の折助酒のときに、
 −ぜひ、局の宿舎を見ていただきたい。
 と、近藤が言い、良順が快諾したのである。酔中、自分も境涯によっては新選組に入っていたかもしれない、と言ったことが、近藤を意外なほどによろこばせた。近藤にはどこか、浪士ということに、あるいは新選組であることに劣等の意識があるようであった。この意識はたとえば江戸以来の同志である松前藩脱藩の永倉新八にはなかったことを思うと、近藤の精神の奥にひそむ暗いばねのようなもののにおいが嗅げるようでもある。永倉などは脱離して好んで浪士になった。しかしもとの出が藩の江戸留守居役の一人山息子なのである。
 良順がなぜ新選組が好きなのか、かれ自身、説明ができない。もともと武侠を好む体質があったとしかいえないようである。
 といって、この時期までかれは新選組をよく知っているとはいえなかった。ただ江戸の医学所で近藤に会い、一見して草双紙の『南総里見八犬伝』とか『通俗漢楚軍談』『三国志演義』に出てくる、たとえば関羽、張飛といった武侠人を近藤に感じてしまったのである。良順は革双紙がすきであった。さらには江戸の武家社会のひとであった。武士というものを飽きる性ど見てきたが、一人のはんかいあるいは関羽の徒を見なかった。医官の家にうまれただけに、かえってこのことがふしぎでならず、心の中のどこかでそれを求めるところがあったのかもしれな。

■新撰組に衛生の規律を取り入れさせる

<本文から>
 良順の医学というのは、一種の哲学のようなものでもあった。
「おれは、薬も要らずただ(経費なし)で人を病気からまぬがれさせる方法はないかといつも考えている」
 と、後年、たえずいっていたが、一貫して養生法主義の医者であったのだろう。おなじく後年、最悪の医療として以下の例をよくあげた。
 あるとき、貧しい若者がいて、父の病気をなおそうと思い、御典医をよんだ。御典医が往診にくる駕籠代だけで若者が一年間働いても足りぬ入費だ、と良順はいう。その御典医が、この病いをなおすには朝鮮人参のほかない、という。朝鮮人参は百両はする。これに絶望して、父子ふたりながら首を吊って死んだ。何のための医者か、と良順はいうのである。
 正直なところ、良順は人間の自然治癒力をまつほか、医者や薬が役にたつことはあまりない、と思っている。このため一生かかって養生法を説き、日進月歩する医学の学理的研究のほうはあまりせず、学問はホンべから受けた程度にとどまった。たとえばボンベのころは細菌学が存在せず、細菌が病気をおこすということはわかっていなかったが、その後の良順の病理学的認識も、ボンぺ時代からさほど進まなかった。良順はそういうこととはべつの場所にいた医者であったらしい。
 良順が、西本願寺の新選組地所の衛生のために指摘したのは、規律であった。
 「規律こそ養生のもとなのだが」
 と、近藤にいった。
 屯所内を良順が一巡しておどろいたのはどの座敷でも壮漢が昼からとろどろしていることで、これでは山塞の盗賊のようだ、と言い、
 「せっかく志ある者も環境上無頼漢の気分になってゆくのではないか」
 と、いうのである。良順は日本における書生合宿の弊風を長崎の医学所においてあらためただけに、かれにはその点についての自負心がある。もっとも長崎におけるそのことは、多分にオランダ海軍の影響もあり、また海軍軍医であるボンベの好みも加わっていた。
 「隊規は、やかましいのだが」
 近藤は、虚を突かれたらしい。近藤のいう隊規は、かれと土方が考えている「士道」を規律としてのもので、良順のいうそれとはちがっている。
 「じつに放縦だな」
 良順はいう。近藤は、隊娘さえ守って隊務に従っておれば、あとはどろどろしていようともかまわない、隊士はみな死士だ、無用のことで締めつけるのはよくない、と思っていたし、良順にもそのように言った。長崎の蘭学書生とはちがうのだ、といいたかったのである。
 「そりや、蘭学書生とはちがうだろう」
 良順は、近藤の言いたいことを察していった。しかし血気の者であることには変りがない、たとえば食事を好きな時間にとったり、あるいは食べなかったりするだけでもまずい、人間は規律ただしく暮らしていれば病気になることがすくないのだ、長崎でほ一人として病人が出なかった、といった。
 「いや、展開からとろどろしているのは、病人か怪我人です」
 土方が、横から良順の印象を修正した。
 「わかっている」
 おれはそれがしょうばいだから、と良順は言い、日常勤務者と病人たちとを雑居させておくのがまずい、病人は心置きなく療養できるように別室をつくってやるべきだ、といった。
 「病室をつくるわけですな」
 「あたりまえのことだ」
 とまでは良順はいわなかったが、似たような表情をしてから、猪口に唇をつけた。伏見の酒らしい。
 近藤は、良順の忠告に従う、といった。ヨーロッパふうの規律が新選組に入ることになったといっていい。

■新撰組を診察、感冒・胃腸障害が多い

<本文から>
 当日の朝、南部をつれて屯所へゆくとすでに臨時の診察室が用意されていた。
 すでに寝ついている病人、怪我人以外に、自分自身で体が不調だと思う者はすべて診る、といっておいたために、七十人以上がやってきた。
 (新選組にはこんなに病人が多いのか)
 と、診ている良順のほうがおどろいた。三人に一人がどこか不調ということではないか。ひとつは、隊士たちの好奇心も手つだってけたかもしれない。良順が将軍の侍医であること、またオランダ人による西洋の正規の医学教育をうけた最初の人物であることというのは、十分好奇心の対象になりうることであった。それにこういう形での診療というのがめずらしかった。
 この当時も、これ以後半世紀以上そうであったが、この国の社会で医師に診てもらうというととは普通、半ば死にかけの重病人にかぎられていた。集団一般に対しいわば健康診断というかたちのことをやったのは良順自身も最初の経験であったし、隊士たちもむろんはじめてであった。この種の形式が日本でおこなわれたのは、あるいはこの慶応元年初夏の新選組屯所でのことが最初であったかもしれない。もっともそれ以前の長崎時代、良順は稲佐の仮設の遊廓で梅毒検査をやったことがある。万廷元年のことで、相手は外国艦船の乗組員を客とする娼妓たちであった。しかしその集団検診とこの場合は当然ながら内容が異なっている。
 良順は、昼食のために三十分ばかり休息しただけで夜ふけまでかかった。南部を助手につかい、個人ごとに病症録を書きとらせた。
 感冒のつぎに多かったのは、不規則な飲食による胃腸障害である。
 三番目が、花柳病であった。梅毒が何人かいた。

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