司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          胡蝶の夢 2

■玄朴が奥御医師になった重大性

<本文から>
  −上様に対し粗相があっては。
 つまり、将軍が死んでもいいのか、というおどしは、なによりも有効であった。玄朴はこの一点で挺子の支点にして大石を崖からころげおとそうという肝づもりだった。
 (こいつは、凄い男だ)
と、井伊もおったにちがいない。
 井伊も、玄朴がいい加減な医者ならばその発言にこうも耳を傾けなかったであろう。井伊が玄朴を奥御医師にえらんだということが即刻大奥につたわったとき、歓声があがるようなぐあいだったといわれる。よくきいてみると、玄朴名医説の謡い手は遠藤但馬守だけではなかった。じつは、玄朴が御じいをつとめる佐賀藩鍋島家の当主鍋島直正の夫人は、前々将軍家斉の息女で、盛姫という。この鍋島夫人が玄朴好きで、かれが希代の名医であるということを、かねて江戸城の奥のひとびとに吹聴していていたため、玄朴の名を知らぬ者がなかったのである。
 井伊は、大奥の支持があって、かれが願望し、推進してきた紀州慶福を養君にすることができた。大奥の世論をことさら気にするところがあったため、玄朴を非常登用したということは、井伊の大奥における声望を増すことでもあり、その意味からいって井伊にとって、玄朴そのものが医師というより、政治的価値をもつ存在なのである。井伊は自己の思想をさておき、玄朴のいうことなら何でもきく姿勢を最初からとっていた。
 将軍家定は、在位五年、茫々と痴呆のままで江戸城の奥に存在するにすぎなかったが、その死病がたねになり、国家の最高医療機関に多数の蘭方医が採用されたことだけは、功績であったといっていい。

■良順は病院の頭取に、ボンペは平等思想を折衷して実施した

<本文から>
 良順はこの病院の「頭取」ということになった。
 しかし事実上の病院長は、ボンペである。かれが一人で各科をうけもつ。幕府はボンペに対し手当を出そうとしたが、ボンペは一笑してうけとらなかった。この点で、人件費はゼロの病院であった。助教授格の良順も奥御医師としての給与をうけており、助手の佐藤舜海、開寛斉は日本有数の名医だが、病院から何の給与もうけない。なんとかやれると良順が計算した基礎は、ここにあった。
 ボンベは無給であるかわり、幕府に対し、
「病院運営については、私は独裁的な権限を要する。私の命令については、何人も服従しなければならない」
 という旨を申し出、ゆるされた。もっとも形式上、幕府は良順に独裁権をゆるし、その権限を良順がボンベにゆずったというかたちではあったが。
 閉院式は、文久元年八月十六日、雨のなかでおこなわれた。二つの病棟のそれぞれに日の丸の旗とオランダの国旗がかかげられた。医学伝習所はこの日にここに移り、病院活動は、その翌日からはじめられた。
 この純西洋式の病院は、それが極東の封建社会のなか忙錐で揉みこむように入ってきただけに、その存在そのものが、医療という以前に思想的事件だった。病院そのものが思想のカタマリとして周囲に思想的異物反応をおこしたといっていい。
 身分制の障害は相変らず大きかった。大村町医学伝習所時代、診てもらいにくる者といえば、長崎における最高の身分−役人と富商−ぱかりであった。病気はむしろ貧民に多い。とくに貧民の場合、ひとたぴ病気になれば生活まで破綻するのである。病院は官民のためにある、とボンベはそのつど怒り、
「医師にとって、病人という対象のみがあるのだ。階級や貧富の差別は、医師の関知するところではない。病院は特権階級の奉仕者ではない。私は日本の誤まった社会習慣を支持するためにやってきているのではないということを知ってもらいたい」
 と、砲えるようにいった。
 このことは、一種の布教に似ていた。
 このボンベの態度はむろんボンペ個人の思想ではなく、オランダという、市民社会の伝統の古い社会のどく平凡な照り映えにすぎないが、それでもポシペのこの態度や言葉をきいた塾生のうち、たとえば周防三田尻の町医の子荒瀬幾造などは、
 (この人は神だ)
 と思い、三田尻にかえってから自邸の庭に小きな両をつくつてボンペを祀り、朝夕おがんでは師であるボンベに謝恩したほどであった。
 しかしボンぺもその平等主義を押し通すことは、役人から復讐されるという点で、結局、病院の成立上、不利だと思うようになった。
「役人というものは、結束して何かに反対するとき、どんな手段もとるということが、経験上、わかってきた。このため業準上重大なマイナスをまねくおそれのないかぎり、譲歩することにした」
 と、ある。つまり、役人が入院する場合の部屋を別にしたのである。このことは折衷主義であったが、これによって役人もボンぺが「日本の美風」をそこねる者ではないと安心し、一般市民も役人と同室という窮屈さから解放され、よろこんで来院するようになった。他の社会の思想を、ただちに別の社会にそのまま移すということの困難さをボンペは体験で学んだ。

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