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<本文から>
−上様に対し粗相があっては。
つまり、将軍が死んでもいいのか、というおどしは、なによりも有効であった。玄朴はこの一点で挺子の支点にして大石を崖からころげおとそうという肝づもりだった。
(こいつは、凄い男だ)
と、井伊もおったにちがいない。
井伊も、玄朴がいい加減な医者ならばその発言にこうも耳を傾けなかったであろう。井伊が玄朴を奥御医師にえらんだということが即刻大奥につたわったとき、歓声があがるようなぐあいだったといわれる。よくきいてみると、玄朴名医説の謡い手は遠藤但馬守だけではなかった。じつは、玄朴が御じいをつとめる佐賀藩鍋島家の当主鍋島直正の夫人は、前々将軍家斉の息女で、盛姫という。この鍋島夫人が玄朴好きで、かれが希代の名医であるということを、かねて江戸城の奥のひとびとに吹聴していていたため、玄朴の名を知らぬ者がなかったのである。
井伊は、大奥の支持があって、かれが願望し、推進してきた紀州慶福を養君にすることができた。大奥の世論をことさら気にするところがあったため、玄朴を非常登用したということは、井伊の大奥における声望を増すことでもあり、その意味からいって井伊にとって、玄朴そのものが医師というより、政治的価値をもつ存在なのである。井伊は自己の思想をさておき、玄朴のいうことなら何でもきく姿勢を最初からとっていた。
将軍家定は、在位五年、茫々と痴呆のままで江戸城の奥に存在するにすぎなかったが、その死病がたねになり、国家の最高医療機関に多数の蘭方医が採用されたことだけは、功績であったといっていい。 |
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