司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          胡蝶の夢 1

■良順は十八歳ですでに佐藤泰然の蘭学知識はすぺて吸収

<本文から>
  良順は十八歳ですでに父親の佐藤泰然の蘭学知識はすぺて吸収してしまい、蘭書の病理学の書物も、この当時の蘭学者の理解する程度にはすぺて理解しており、また腫物の切開法や傷の手あての仕方も、そつなくできた。養父の良甫は建前を漢方とし、あわせて蘭学も学んだが、養父の蘭学理解力にくらぺると、年若い良順のほうがはるかに上であった。しかし子
供である部分が、ひとよりも多量に居すわっているらしく、たえず悪戯道具を作っては遊んでいた。

■死にものぐるいで漢方を学び合格する

<本文から>
(それほど気をつかってきた養父が、わぎわざ蘭方書生のおれを選んで養子にしたのは、よほどの勇断だったのだ)
 とも思った。ということは、養父がこの良噸を買うところがよほど高いということでもある。士はおのれを知る者のために死す、というではないか、と思いなおしたりした。
 そのこともある。
 それ以上に良順の心をゆさぶったのは、登喜の寝姿だった。登喜は、泣きながら眠ったらしい。懸念やら悲しみやらが夢にまで出てきているのか、ときどき泣きじゃくっているような動作をした。それを見ていると、
 (登喜と添い遂げたい)
という激しい感情が、血の中に塩酸がまじったような感じで涙腺や鼻腔の粘膜を襲った。
(死にぐるいになって、六十日で漢方の書誓願えて憶えて憶えぬいてみるか)
 と、覚悟した。
 明け六ツ(午前六時)の太鼓が鳴る前に、良順は養父の部屋の前の廊下にすわった。毎朝の日課である。ふつうは、ただ明り障子越しに朝のあいさつをするだけだが、この朝、ひとこと付け加えた。
 「きょうより六十日間、漢方をやってみます」
といった。
 養父の良甫は、激しく行動した。障子をあけて出、良順のそばにかがむなり、養子の手をにぎりしめた。おそろしいほどのくそ力で、良順は痛さに閉口した。
 漢方の書籍は、養父良甫の蔵書を借りることにした。
 「なるぺく基礎からやれ」
と養父はいったが、良順は従わず、多紀楽真踪の底意地の悪い性格から考えて難問を出すのにちがいない、それならば一人前の漢方医にしてはじめてわかるような書物を、いっそ丸暗記してしまいたい、といった。
「しかし基礎をやらねば、将来役に立つまい。折角の機会だから、漢方というものの考え方を身につけておいてもわるくあるまい」
「どうせ喧嘩でどぎいましょう?」
 良順は、どすの利いた顔をした。
「喧嘩のために憶えるのでございますから、喧嘩がのちのち身の役に立ちませぬように、ともかくも今は喧嘩に勝つだけの手を考えるがよいかと存じます」
「喧嘩か」
 養父良甫は、声を立てて笑った。
「そのとおりだ。よく考えてみると、いまから基礎をやったのでは、何年かかるかわからぬ」
「どのような書物を読めばよいか、お教え下さいませぬか」
(医者にはほ惜しい面構えだ)
 と、養父良甫はおもった。良甫がきいているところでは、良順の祖父は医者でも武士でもなく、出羽の鳥海山の西麓の野から江戸に出てきた悪党とも才覚者ともつかぬ男で、度胸と智恵で旗本の用人になり、目に一丁字もないの主家をみどとに切り盛りするほか、大名を相手の訴訟事までやり、悪たれ藤助とよばれた人物だった。
 藤助の子の佐藤泰然はおよそ藤助の子とは思えぬほどに温和でけれん味のな性格だが、養父良甫の見るところ、悪たれ藤助の血はこの良順にひきつがれているらしい。
 養父良甫は、良順の作戦に従い、書籍を貸しあたえた。多紀楽真掟の先祖の多紀元徳(永寿浣)とその子の桂山に著書が多い。
 「多紀楽真院は、こういう先祖の功業に拠って威張りかえっているのだ」
 といって、まず元徳の著書をとり出した。

■大阪の適塾とこの佐倉順天堂の違い

<本文から>
 この当時、大阪の適塾とこの佐倉順天堂とが、天下の蘭学塾の双璧であったことは、すでに触れた。
 その異同点をいくつかあげると、まず適塾の特徴は、語学教育を重視して医学教育を従にしていたことであろう。緒方洪庵はいうまでもなく大医であり、かれ自身は医者を養成しているつもりで塾生に医書を読ませ、なによりも医道を説き、医学教育以外のことは考えなかった。しかし結果としてはこの塾から多くの医者、医学者のほかに、福沢諭吉のような経済学者・啓蒙家、文明批評家が出、橋本左内のような経倫家が出、あるいは村田蔵六(大村益次郎)のような民族主義的な兵法家が出た。
 適塾は、語学学校のような観があった。医学についても、その教科内容において、病理学概論と解剖学概論を極端なまで重視した。このことも、適塾の風をつくる上で重要な因子であったといっていい。
 医学は、同時代のヨーロッパにおいて、すでに諸科学の総合というような相貌を呈しはじめている。
 適塾も順天堂も、いうまでもなくそういう総合的な性格はすこしも持っていない。適塾の場合、医学のヨーロッパ的な総合性という大きな体系の中から、わずかに病理学と解剖学の概論書を二冊抜いて「医学」とした。この二つを学べば何となく人体がわかったような気がし、病気のモトも理解できたような気がするという霊妙さがあった。あとは内科の臨床指導を読む。これだけでほぼ医者が成立した。しかしそれ以上に、これらの学問の修得は、当時、漢学と国学だけしかな日本の状況下では、医学よりもむしろ、他の物事(たとえば社会、国家あるいは世界)といったものを観察したり、分析したり、認識したりすることに役立った。という以上に、思考法そのものが書生たちにとって驚異であり、そのことが書生たちの大脳豊大な刺激を与えきとはまちが妄い。適塾から、医者以外に多くの人材がでたのは、ひとつにはそういうことであったであろう。
 順天堂は、力点の置き場所が異っている。適塾の場合、洪庵は医術の実地指導はほとんどしなかった。
 「せめて先生の往診のときについてゆきたいものだ」
 と、塾生たちがいったほどだったといわれるが、この点、順天堂のほうが職人的といっていい。手術には塾生を助手として手伝わせるし、修業がやや足った塾生には代診をさせたりし、あとで泰然や舜海が「後按」という批評をした。蘭語修得についても適塾ほど厳格ではなく、舜海自身、
 「順天堂にあっては、原書を読むより治療に巧みになることを重視する」
 という意味のことを言っており、蘭語に堪能でも医術に暗ければ塾内では重んじられなかった。たとえば伊之助の場合、どちらかといえば適塾むきの男で、順天堂むきとは言いにくかった。

メニューへ


トップページへ