司馬遼太郎著書
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          古往今来

■関ケ原での蜂須賀家

<本文から>
  大坂にいた父親の家政は(どうやら西軍が負ける)とみて積極的に動かなかった。ただ大坂城三ノ丸の久太郎町橋の警固をつとめた。これならいざ西軍が負けたとき、勝者の家康に対し「私は橋の番をつとめていたにすぎませぬ」といい開きができるであろう。
 ところが、西軍首脳はこの蜂須賀家政の態度を奇怪として戦場への出兵を命じた。家政は事情をかまえてことわったが、西軍首脳のひとり大谷青継が執拗に要求してやまない。
 結局、小部隊を出すことにした。命ぜられた戦場は北陸であった。
 その派遣隊長は蜂須賀家の家老でもない、その下程度の階級の高木法斎という人物であった。法斎は、自分のおかれた運命をよく知っていた。もし西軍が勝てば「蜂須賀家は西軍のために働いた」という証拠として自分の武名は光るであろう。しかし西軍が負ければ蜂須賀家は家康に対し、
 「高木法斎は主人の命をきかず、勝手に兵をひきだして私戦をしたのでござる」
 と表明し、法斎を罪人にするであろう。法斎はそれを承知の上で、いや承知どころかこの主家保存案をみずから立案し、みずからその犠牲的運命をえらんだ。こういう心情と行動もまた日本人の、いかにも日本人らしい発想法であろう。
 西軍は負けた。
 大坂の久太郎町橋にいた蜂須賀家政はあわてて(あるいは落ちついて)頭をまるめて蓬庵と号し、罪を待った。
 家康方である息子の至鏡は、徳川家の重臣に運動し、
「拙者の軍功に代えても、父の一命をおゆるしくださいますように」
 と頼み入った。この発想の調子のよさ、筋ごしらえの芝居めかしさも、日本人的である。その泣訴を受ける家康も、この芝居の筋を十分に心得たうえで、自分も舞台にあがり、十分に恩を売った上で、その泣訴をゆるしている。蓬庵のいのちはたすかった。しかも助命した息子の至鏡よりも十八年長く生き、
代将軍家光のころ八十一歳で永眠している。
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■大久保利通は常に畏怖もしくは畏敬される存在

<本文から>
(なにをそのようにお高くとまっているのだ)
 という感情が、サトウにあったにちがいない。幕末、サトウは英国公使をうまくリードして親薩の方針をとった。サトウにすれば英国の後押しがあったればこそ薩長政権というにひとしい大政官が樹立されたのであり、その実質上の長である大久保は、そのことを感謝する気持をサトウに示してもかまわない。
 が、サトウが会いに行っても、大久保は超然としていたにちがいない。かれは天性、威厳があり、およそ人に好かれたいという衝動は一度もおこすことがなかったと思える。大久保はそのまわりの人々から畏怖もしくは畏敬される存在であって、愛される要素はなかった。愛頼もなかった。幕末のある日、京都の大久保の借り家へ西郷がその仲間と一緒にきたことがある。大久保は奥でなにか書きものでもしていたのか、西郷らを待たせて出て来なかった。西郷はふと、一蔵どんはいつもあんなしかつめらしい演をして、婦人を御しているときもやはりあの顔であるのか、という意味のことを西郷独特の譜諺でもって言ったため、一同は大笑いした。隣室で仕事をしていた大久保はたまりかねて出てきたという。そのときでも、大久保は一座のさざめきとは無縁の表情をしていた。こういう人物が、サトウに対しても、軽々に幕末の礼をいうわけもなく、胸襟をひらいて楽しいふんいきを作るということもない。好悪の情のつよすぎるサトウが、大久保をはげしくきらい、ひいては大政官を嫌悪し、晩年はこの嫌悪感がひろがって日本のことのすべてを思い出したくないほどの気分になったのは、感情家のサトウの性格を思えばその原イメージの何割かは大久保の個性に帰せちれねばならない。政治は感情だという西洋のどの思想家だったか、そう言ったことが、この場こそあきらかにあてはまる。
西郷は、一個の人間としての能力でいえば、およそでくの坊だったともいえる。
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■西郷は南方の風土が作りあげた

<本文から>
 西郷は一変人として世間を窮屈がりつつ、あのような大波瀾をおこすことなく、何となく世間が自分の寸法に適わないことを欺きつつも大過なく老いたにちがいない。思いついただけの例としてあげるのだが、加賀藩でも南部藩でも、あるいは津軽藩でも、同藩の士を極度に等敬するという風習がない。すくなくとも薩摩藩のようにつよくない。何に用いていいかわからないにせよ、ともかくも西郷のような巨大な人物が出てしまった場合、薩摩藩以外のところでは、結局は跼蹐させられてしまって小さな寸法になってしまうか、あるいは世をすねて早くに退隠してしまうかのどちらかであるにちがいない。
 薩摩の藩風として、その人物が理想的な首領の風があるとなれば、これを甚しく尊敬し、かつぎ、ついにはその人物のために命も要らぬということになってしまう。西郷は、素材として十二分にそうされるにふさわしい種子を持っていた。しかし薩摩という地がなければ、西郷はああはならなかったにちがいない。
 薩摩にはオセンシ(大人衆?)という言葉があり、慣習のなかでつよい権威をもっている。オセンシのいうことにさからうな、といわれる。オセンシの命令は絶対というにちかい。オセンシはいうまでもなく藩の職ではなく、郷中の暮らしの中にいる。朝鮮儒教社会で郷中にいる両班はお上が作った指導者だが、オセンシはそういうものではない。また中国儒教社会の読書人のようなものでもない。要するに薩摩の郷中で醗酵するように出来あがってゆく存在である。お上とは無縁に一郷の着たちがおのずと推賞する存在で、誰がそうだともいえない場合もあり、この間の消息や機敏は一種、老荘的でさえある。「オセンシがいわれた」となれば、事情はわからないがともかく銃を執って戦場にゆくというものであり、この意味からいっても西南戦争は薩摩藩でしかおこらず、またおこせない、ということにもなる。さらにいえは、城下の方限(町内)や郷中においては、この小地域の西郷というべきオセンシが、伝統として存在した。このことは、薩摩藩、西南戦争、西郷を理解する上で、重要であるといわねばならない。蛇足としていうならば、維新後の鹿児島県にあっては、多くのオセンシの頂点に立つオセンシが西郷だったということになる。
 そういうオセンシというのは、かつては郷中頭をつとめていて、若者たちから大きな敬愛を受けた者が多い。そういう意味からいえば、オセンシもまた南方民俗町な社会意識の上に成立していたことになるし、さらにいえば、薩摩藩というのは、他藩の知識だけでこれを見ることができないほどに変った人間組織だったといっていい。
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■海音寺潮五郎氏を悼む

<本文から>
 晩年、ジャーナリズムとの縁を断ち、自分しか書けないものとして『西郷隆盛』の書きおろしに専念しはじめたときも、
 「若い方が決しておわかりにならないことは、私の財布にはもう小銭しか残っていないということです。残りの時間をおしまざるをえません」
 と言い、活字になるとその程度だが、さざなみ立つような笑顔のほんの一部としてその言葉が聞こえてくるという感じの話し方だった。
 上につくということについては、この人の思想にも生き方にもそういう要素が片鱗もなく、どの本での随筆だったか、犬ぎらいのことが書かれていたことでもわかる。犬は人には随順するが犬同士に対しては鳴えあうという性質をこの上もなく卑しいものとして書かれていたが、この人の本質とでもいうべき市民的自尊心が、暗喩のかたちでならこれほどはげしく出るのかと思ったりした。
 福沢諭吉がさかんに啓蒙した独立自主の平民の精神とか、人間平等の思想とか、個人の独立と一国の独立のかかわりといった近代の精神を、薩摩の郷土屋敷の子がごく自然に持っていたということが、氏についての不思議さの一つだが、そのなかにさきに触れた郷俗のにおいがあった。戦時中、徴用されたとき、被徴用着たちが大阪港に集合した。引率者の中佐が演説して「軍の組織に入った以上、命令を聞かねばぶった斬る」といったとき、氏が大声で「ぶった斬れるものならぶった斬ってみろ」と叫び、中佐の顔を蒼白にさせたことを、その列伍にいた人から、後年、私はくわしくきいた。脅迫されて命にしたがうことは卑怯であると薩摩ではされてきた。明治以前の薩摩人ならだれでも右のように反応したことを、氏もまたそう反応したにすぎず、このあたりに氏が正統にうけついできた倫理的風土性があるかのように思える。
 この挿話について誤解を避けるためにいうが、氏は壮士ではない。壮士という日本独特の、野卑で功利的で一種のナルシシズムとしかいえない病的気質群から氏はおよそ遠かった。
 これらのことは、氏の人柄について触れていると同時に、氏の作品の特質をも重ねて述べているつもりである台たとえば昭和十年、永田という陸軍軍務局長が、狂信的な右翼軍人に執務室で斬殺されたとき、テロリストヘの憎悪をこめて『大老堀田正俊」を書いた。
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