|
<本文から>
大坂にいた父親の家政は(どうやら西軍が負ける)とみて積極的に動かなかった。ただ大坂城三ノ丸の久太郎町橋の警固をつとめた。これならいざ西軍が負けたとき、勝者の家康に対し「私は橋の番をつとめていたにすぎませぬ」といい開きができるであろう。
ところが、西軍首脳はこの蜂須賀家政の態度を奇怪として戦場への出兵を命じた。家政は事情をかまえてことわったが、西軍首脳のひとり大谷青継が執拗に要求してやまない。
結局、小部隊を出すことにした。命ぜられた戦場は北陸であった。
その派遣隊長は蜂須賀家の家老でもない、その下程度の階級の高木法斎という人物であった。法斎は、自分のおかれた運命をよく知っていた。もし西軍が勝てば「蜂須賀家は西軍のために働いた」という証拠として自分の武名は光るであろう。しかし西軍が負ければ蜂須賀家は家康に対し、
「高木法斎は主人の命をきかず、勝手に兵をひきだして私戦をしたのでござる」
と表明し、法斎を罪人にするであろう。法斎はそれを承知の上で、いや承知どころかこの主家保存案をみずから立案し、みずからその犠牲的運命をえらんだ。こういう心情と行動もまた日本人の、いかにも日本人らしい発想法であろう。
西軍は負けた。
大坂の久太郎町橋にいた蜂須賀家政はあわてて(あるいは落ちついて)頭をまるめて蓬庵と号し、罪を待った。
家康方である息子の至鏡は、徳川家の重臣に運動し、
「拙者の軍功に代えても、父の一命をおゆるしくださいますように」
と頼み入った。この発想の調子のよさ、筋ごしらえの芝居めかしさも、日本人的である。その泣訴を受ける家康も、この芝居の筋を十分に心得たうえで、自分も舞台にあがり、十分に恩を売った上で、その泣訴をゆるしている。蓬庵のいのちはたすかった。しかも助命した息子の至鏡よりも十八年長く生き、
代将軍家光のころ八十一歳で永眠している。 |
|