司馬遼太郎著書
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          この国のかたち5

■武士は土地を所有するのでなく支配権があった

<本文から>
 大名ならみな国もとに城(小大名なら陣屋)がある。
 これも、近代法でいう所有権が大名にあったかどうかはうたがわしい。
 たとえば広島に多重の大天守閣をもつ近代城郭を築いたのは、豊臣政権下での毛利輝元であった。設計・施工すべて毛利氏の能力と経費でおこなわれた。
 関ケ原の役を境に徳川の天下になり、毛利氏は入城後わずか九年で長門の萩にうつされ、代って広島城に福島正則が入った。ほどなく福島氏が他に改易され、前記の浅野氏がこの城に入った。
 広島城が毛利氏によって築かれてからわずか二十八年の間に、三度も所有権が移動しているのである。そのつど代価が支払われたかとなると、そのことは無かった。
 城は、漠然とした観念ながら、公のものという思想が確立していたのにちがいない。
 右の広島城の例でいうと、大名には居城の使用権があっただけということになる。
 全国の城々は明治四年(一八七一年)の廃藩置県によって一せいに国家に無償召しあげされ、国有地になった。当時たれもあやしまなかったところをみても、城は天下のものという観念は、ふつうにゆきわたっていたのである。
 土地のことである。
大名たるものは、その領地にあって、農地や市街地に一坪の土地も所有していなかった。大名はひろく領内の支配権をもっていただけだった。
 この点、貴族が農場主だった封建時代のヨーロッパや、帝政時代のロシアの場合と異っている。
 帝政時代のロシアでは、貴族が金にこまって農場を売るとき、広告を出して、その農地の上に、農奴が多くいればいるほど、高値がついた。
 その点、日本の江戸時代の大名は、その領地における土地・人民を支配していたものの、所有していたわけではなかった。ヨーロッパの封建時代やロシアの帝政時代との決定的なちがいといえる。
 土地をもつものは、武士からみれば卑しい身分の町人と農民だった。
 藩士たちも、土地などは持っていなかった。
 「あの角の八百屋の地所は、ご家老が持っている」
ということは、ありえなかった。
 またある藩士が、こっそり田畑を所有していて、農民に小作させている、などということもなかった。
 こまかく例外をいうと、江戸時代のある時期に、富農や富商の一部が、郷土という身分にひきあげられた。この場合、かれらはその後も農地や町方の土地を持っていた。ただし、侍としての身分はきわめて低かった。
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■合理的な思考者の村田蔵六

<本文から>
 武士の世の終わりを早くから察知していた人物がもうひとりいました。
 村田蔵六、のちの大村益次郎がその人です。この人のことは『花神』で語りましたが、彼も長州周防の一介の村医者、身分は百姓でした。恐妻家で妻がヒステリーを起こすと縁側から飛び出し麦畑にひそんでおさまるのを待つという風変わりな、表老荘的気分をもった人柄でした。この無愛想で合理主義のかたまりのような医者が、維新最高の軍略家であり明治陸軍の事実上の創設者になるのですから、ふしぎなものですね。
 名将というのは、一民族の千年の歴史のなかで二、三人いれば多いほうといっていいほどの才能なんです。画家や作家や音楽家は、つねに存在しますけれどもね。
 それがわかっていたのは木戸孝允でした。いざ倒幕ということになっても、司令官の人材がいないんです。薩摩の西郷は、自藩のなかで伊知地正治という人をひそかに起用するつもりでしたが、やがて西郷は、自分の鑑定ちがいだったことに気づき、長州が出した大村を黙認します。
 木戸が蔵六を最初に見たのは、江戸の小塚原で、蔵六が刑死人の解剖をしていたときだそうで、その腑分けのたしかさと、慎重さ、しかも動作に確信の裏付けがあって、むろん多弁ではない人柄に奇妙さを感じたのだそうです。きくと、同じ長州人だという。蔵六のなにかに木戸のかんが働いたのでしょう。
 蔵六は木戸の推挙で、第二次幕長戦のとき、山陰への部隊をひきい、石見の浜田城を.あっけなくおとしました。実戦の部隊長としての蔵六は、情報をできるだけあつめ、みずからも木にめぼって敵情を見、勝つと思えば兵力を集中して迅速に攻撃するというやり方でした。やがて戌辰戦争、そして上野の彰義隊の乱とことごとく作戦の指揮をとり、一度も誤りがありませんでした。自身、馬にものれず、むろん撃剣などやったことがありません。変な人を木戸はよく見つけたものだと思います。
 ついでながら木戸の政治家としてのえらさは、政治が軍を統御し、軍を政治化させないという堅固なルールを藩内政治の段階でももっていたことでした。彼は奇兵隊の政治団体化をおそれていましたし、のち明治政府に出てからも、この一点にかわりがありませんでした。明治政府になってから、西郷が軍を代表し、しかも圧倒的な人望があったことに、つよく警戒していました。
 蔵六に話をもどします。この人ほど合理的な思考者は世にもめずらしいというべきですね。文学的修辞でもって自他を昂奮させるということもない。山陰の浜田方面に行ったときも短袴というサルマタの大きめのものをはき、軍の先登に立って威厳を示すわけではなく、部隊の中途かうしろのほうをのこのこと歩いてゆきました。ともかく蔵六のような人間に軍を任せるというのは長州のよきところでした。会津のような身分秩序そのもののような藩ではあり得ないことです。やはり近代を呼び込む藩はそれだけの歴史と体質を備えています。
 江戸攻めの時は蔵六は実質的な連合軍総司令官でした。江戸城から指揮しました。
 蔵六の苦心は、江戸の街を火にせず、彰義隊だけを集結させてたたくことでした。これを巧みにやり、市中に分散していた彰義隊を上野寛永寺に集結させました。
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■歴史教育の南朝正統論

<本文から>
 幕末の″尊王攘夷″は革命思想とまではいえないものの、水戸学的気分がエネルギーになり、明治維新が成立した。
 維新後の歴史教育に、水戸学は当然ながらひきつがれた。
 ただ、明治の開明主義にあって、どちらも正統であるという南北併立論が主流になった。
 その併立論が、小学校教育の場で明快にされたのは、明治四十三年(一九一〇年)の文部省編纂の小学教科書「日本歴史」によってである。
 これが、世の虚論家たちの餌食になった。
 国会での論議にまでなろうとした、その急先鋒が、大阪の漢学者藤沢南岳の息で、元造という代議士だった。
 南朝併立だとすれば、楠木正成・新田義貞たちは忠臣でないというのか。
 などという類いのことを、藤沢は、第二十七回衆議院本会議において質問演説すべく用意し、上京した。
 首相の桂太郎は、事態を未然にふせぐべく、本会議の前日に上京してきた藤沢を待ちうけ、私的な席を設け、いわば籠絡した。藤沢の性格からみて、買収されたわけではなかった。
 桂は、藤沢に対し、かならず南朝正統論の方角で教科書をあらためる、と約束したため、藤沢はなっとくせざるをえなかったのである。藤沢は、この″挫折″に対し、みずからを罰する意味で、議員を辞めた。
 結局、その後の歴史教育は、桂首相がその場を糊塗するために藤沢に約束したように、南朝が正統であるという方角にむかった。
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■日露戦争までが日本強度の未

<本文から>
 そのくせ、浪人結社です。竜馬には、浪人をもって、江戸封建制から脱け出した最初の″通目本人″と考えるような思想がありました。
『竜馬がゆく』を書き終えてから気づいたことですが、竜馬は江戸封建制のなかにあって、架空ともいうべき一点″海援隊″を長崎でつくり、まだ藩にこだわっている革命家たちとはちがう星にいるかのようでした。かれは、世界に対して貿易をすることを夢みていました。それには日本が統一国家にならないとこまるのです。
 おりから京都の情勢がもたついている。慶応二年(一八六六年)の薩長秘密同盟へのとりもちも、竜馬のそういう思考の場所から出ていました。
 薩長秘密同盟の締結によって幕末の混乱がその終息にむかって躍進したことはたしかです。
 場所は、薩摩藩の京都藩邸でした。長州からひそかにやってきたのは、のちの木戸孝允ですが、薩摩側は西郷のまわりに多少の人数の顔ぶれがならんでいました。大山弥助、野津七左衛門という名が見えます。大山弥助はのちの巌、日露戦争の満州軍総司令官です。そして野津七左衛門はのちの道貫、やはり日露戦争で第四軍の司令官をつとめた人物です。日露の戦いまでは、こうした人物たちが指導的地位についていました。ちなみにこの同盟には西郷の弟従道も立ち会っていますが、彼が日活戦争後の日本海軍の充実に力を振るった山本権兵衛の最大の後援者であったこともよく知られているところです。日露戦争が、時期的に強度の未だったことがわかります。
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■市民軍が武士に勝ち武士の時代が終える

<本文から>
  高杉についてはその天才ぶりが、師の松陰の予測すら超えたものであったでしょうな。恵まれた育ち方をした人で、藩の重職につく人だったでしょう。松陰が煽動したのではなく、高杉自身が、求めてやってきました。その祖父が「どうか大それたことをしませんように」とねがっていたそうですから、天成、風雲に臨むところが気質としてあったのでしょう。
 高杉の存在のゆゆしさは、藩の許可を得て、正規の家中のほかに、非正規軍の奇兵隊という市民軍を組繊したことです。これだけで、江戸封建は根底からくずれたといえます。しかものちに藩論が紛糾して、萩の正規武士団と奇兵隊が絵堂という所で決戦して、勝つのです。市民軍が武士に勝ってしまったというのが、武士の世の終わりを、まず長州が示したということになりましょう。
 武士の世の終わりを早くから予言していたのは『峠』という小説で書いた越後長岡藩総督の河井継之助もそうでした。彼と高杉が異なったのは、高杉は毛利の殿様には死ぬまで愛情を持ちつづけながら、しかしその反面で長州藩といった藩などもはや用済みに過ぎず。
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