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<本文から> 大名ならみな国もとに城(小大名なら陣屋)がある。
これも、近代法でいう所有権が大名にあったかどうかはうたがわしい。
たとえば広島に多重の大天守閣をもつ近代城郭を築いたのは、豊臣政権下での毛利輝元であった。設計・施工すべて毛利氏の能力と経費でおこなわれた。
関ケ原の役を境に徳川の天下になり、毛利氏は入城後わずか九年で長門の萩にうつされ、代って広島城に福島正則が入った。ほどなく福島氏が他に改易され、前記の浅野氏がこの城に入った。
広島城が毛利氏によって築かれてからわずか二十八年の間に、三度も所有権が移動しているのである。そのつど代価が支払われたかとなると、そのことは無かった。
城は、漠然とした観念ながら、公のものという思想が確立していたのにちがいない。
右の広島城の例でいうと、大名には居城の使用権があっただけということになる。
全国の城々は明治四年(一八七一年)の廃藩置県によって一せいに国家に無償召しあげされ、国有地になった。当時たれもあやしまなかったところをみても、城は天下のものという観念は、ふつうにゆきわたっていたのである。
土地のことである。
大名たるものは、その領地にあって、農地や市街地に一坪の土地も所有していなかった。大名はひろく領内の支配権をもっていただけだった。
この点、貴族が農場主だった封建時代のヨーロッパや、帝政時代のロシアの場合と異っている。
帝政時代のロシアでは、貴族が金にこまって農場を売るとき、広告を出して、その農地の上に、農奴が多くいればいるほど、高値がついた。
その点、日本の江戸時代の大名は、その領地における土地・人民を支配していたものの、所有していたわけではなかった。ヨーロッパの封建時代やロシアの帝政時代との決定的なちがいといえる。
土地をもつものは、武士からみれば卑しい身分の町人と農民だった。
藩士たちも、土地などは持っていなかった。
「あの角の八百屋の地所は、ご家老が持っている」
ということは、ありえなかった。
またある藩士が、こっそり田畑を所有していて、農民に小作させている、などということもなかった。
こまかく例外をいうと、江戸時代のある時期に、富農や富商の一部が、郷土という身分にひきあげられた。この場合、かれらはその後も農地や町方の土地を持っていた。ただし、侍としての身分はきわめて低かった。 |
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