司馬遼太郎著書
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          この国のかたち4

■村田新八について

<本文から>
  勝海舟は、薩摩通であった。明治後、日本国の宰相たるべき者として、維新後、
 「たとえ西郷・大久保がいなくとも、村田新八(一八三六〜七七)がいる」
 と、語った。
 私事だが、『翔ぶが如く』という作品を書いたとき、なにぶん近い時代であるために、できるだけ書簡や記録、あるいは良質な伝承などから離れまいと心掛けた。
 当初は、村田新八を主軸にして書こうと考えていたが、不可能だと気づいた。
 新八自身、無口で、みずからについて書いたり語ったりすることがほとんどなかったからである。
 かれは、当時の流行語でいう新帰朝者だった。明治四年、岩倉具視や大久保利通らとともに欧米を数年にわたって視察し、明治七年に帰国した。当然ながら新政府にあって大久保に次ぐ地位に立つべき運命をもちながら、その″幸運"をすべてすてた。
 明治七年、帰朝後、新八は横浜から栄達が待っている東京にむかわず、そのまま西郷のいる鹿児島に帰り、ともに死んだ。
 このときの新八の選択を、当時のひとびとがさほど異としなかったのは、時代が新八とおなじ士風を共有していたからといえる。
 新八は、武士にはめずらしく三味線が好きで、名手だったとされている。
 よほど音楽が好きだったのか、ヨーロッパで手風琴を買い、すぐ習熟した。
 西南戦争の末期、延岡から鹿児島への敗走中、山中でこの洋行みやげの楽器を奏でて独り楽しんだ。ついでながら新八は長身で、戦闘中、フロックコートを着ていた。山中で野宿したとき、
 「薩摩の士風も結構だが、個というものがない」
 と、こぼしたという話が伝わっている。新八は、今後の日本は個々が自分を確立すべきである、欧米の文明は個人の独立から興った、と福沢諭吉とそっくりのことをいったらしい。
 だからかれは旧制度を恋慕して反乱に投じたのではなく、ただ簡潔に士としての節度に殉じたことがわかる。
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■靖国の前身である招魂社は大村が超宗教の形式で設けた

<本文から>
 設けるについては、木戸と相談し、場所を九段坂上にきめた。旗本屋敷数軒を毀ったりして三万五千坪を得、まず仮殿をつくり、勧進相撲や花火大会を催したりした。死者たちをよろこばせるつもりだった。大村も木戸も、人ごみのなかにまじって見物した。
 右の創設は、明治二年六月のことである(三方月後に、大村は遭難する)。
 死者を慰めるのに、神仏儒いずれにもよらず、超宗教の形式をとったのは、前代未聞といっていい。大村は公の祭祀はそうあるべきだとおもっていたにちがいない(この招魂社が、十年後の明治十二年別格官幣社靖国神社になり、神道によって祭祀されることになる)。
 余談ながら、長州の農村は宗教色のつよい風土で、隣りの安芸(広島県)とならび、″長州門徒″などといわれて浄土真宗の信仰がつよかった。だから大村には宗教への理解は十分にあった。であればこそ超宗教の性格をもたせたのに相違ない。
 もう一つ大切なことは、招魂社を諸藩から超越させたことである。当時、まだ二百数十藩が厳然と存在したこの時代に、諸藩の死者を一両堂にあつめ、国家が祈念する形をとったのは、前例がない。大村にすれば、統一国家はここからはじまるということを、暗喩させたつもりだったのにちがいない。
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■不正直で勇気のない軍によって日本は滅んだ

<本文から>
 アメリカのポーツマスで小村寿太郎とロシアのウィッテとが日露の和平交渉をするものの、双方条件が合わない。ロシアは譲らない。樺太をよこせ、賠償金を出せと日本側は言う。再びロシア側は、そんな譲歩は必要ない、もう一ペんやるならやるぞ、いくらでも陸軍の力はあるぞと。それに対し、結局はルーズヴェルトの仲裁で、食卓の上にシヤケの一匹でものせたらどうだ−シャケは樺太のことですが その程度の条件で折り合った。
 ところが戦勝の報道によって国民の頭がおかしくなっていました。賠償金を取らなかったではないかと反発して、日比谷公会堂に集まり国民大会を開き、交番を焼き打ちしたりする。当時、徳富蘇峰が社長をしていた国民新聞も焼き打ちに遭う。蘇峰は政府の内部事情に詳しく、或争を終わらせることで精いっぱいなんだ″ということをよく知っていましたから、国民新聞の論調は小村の講和会議に賛成にまわり、結果、社屋を焼き打ちされた。
 日比谷公会堂は安っぼくて可燃性の高いナショナリズムで燃え上がってしまいました。″国民"の名を冠した大会は、″人民″や″国民″をぬけぬけと代表することじたい、いかにいかがわしいものかを教えています。
 この大会あたりから日本は曲がっていきます。要するに、この大会はカネを取れという趣旨であって、「政府は弱腰だ」「もっと賠償金を取れ」と叫ぶ。しかし、もっと取れと言っても、国家対国家が軍事的に衝突しているというリアリズムがあります。いまかろうじて勝ちの形勢ではあっても、もう一カ月続いたら、満洲における日本軍は大敗していたでしょう。
 ロシア側は奉天敗戦後、引き下がって陣を建て直し、訓練を受けて輸送されてくる兵員を待ち、弾薬を充実させています。そのときに平野に展開した日本軍はほとんど撃つ砲弾がなくなっている。訓練された正規将校は極めて少なくなり、いきのいい現役兵は極端に減っていました。
 日本国の通弊というのは、為政者が手の内とくに弱点を国民に明かす修辞というか、さらにいえば勇気に乏しいことですね。この傾向は、ずっとのちまでつづきます。日露戦争の終末期にも、日本は紙毒で負ける、という手の内は、政府は明かしませんでした。明かせばロシアを利する、と考えたのでしょう。
 戦争のことを好んで話しているのではありません。日本の二十世紀が戦争で開幕したことと、戦争がその国のわずかな長所と大きな短所をレントゲン写真のように映し出してくれるからです。
 たとえば第一次大戦で、陸軍の輸送用の車輌や戦車などの兵器、また軍艦が石油で動くようになりました。石油を他から輸入するしかない大正時代の日本は、正直に手の内を明かして、列強なみの陸海軍はもてない、他から侵入をうけた場合のみの戦力にきりかえる。そう言うべきなのに、おくびにも洩らさず、昭和になって、軍備上の根底的な誓州を押しかくして、かえって軍部を中心にファナティシズムをはびこらせました。不正直というのは、国をほろぼすほどの力があるのです。
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