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<本文から>
勝海舟は、薩摩通であった。明治後、日本国の宰相たるべき者として、維新後、
「たとえ西郷・大久保がいなくとも、村田新八(一八三六〜七七)がいる」
と、語った。
私事だが、『翔ぶが如く』という作品を書いたとき、なにぶん近い時代であるために、できるだけ書簡や記録、あるいは良質な伝承などから離れまいと心掛けた。
当初は、村田新八を主軸にして書こうと考えていたが、不可能だと気づいた。
新八自身、無口で、みずからについて書いたり語ったりすることがほとんどなかったからである。
かれは、当時の流行語でいう新帰朝者だった。明治四年、岩倉具視や大久保利通らとともに欧米を数年にわたって視察し、明治七年に帰国した。当然ながら新政府にあって大久保に次ぐ地位に立つべき運命をもちながら、その″幸運"をすべてすてた。
明治七年、帰朝後、新八は横浜から栄達が待っている東京にむかわず、そのまま西郷のいる鹿児島に帰り、ともに死んだ。
このときの新八の選択を、当時のひとびとがさほど異としなかったのは、時代が新八とおなじ士風を共有していたからといえる。
新八は、武士にはめずらしく三味線が好きで、名手だったとされている。
よほど音楽が好きだったのか、ヨーロッパで手風琴を買い、すぐ習熟した。
西南戦争の末期、延岡から鹿児島への敗走中、山中でこの洋行みやげの楽器を奏でて独り楽しんだ。ついでながら新八は長身で、戦闘中、フロックコートを着ていた。山中で野宿したとき、
「薩摩の士風も結構だが、個というものがない」
と、こぼしたという話が伝わっている。新八は、今後の日本は個々が自分を確立すべきである、欧米の文明は個人の独立から興った、と福沢諭吉とそっくりのことをいったらしい。
だからかれは旧制度を恋慕して反乱に投じたのではなく、ただ簡潔に士としての節度に殉じたことがわかる。 |
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