司馬遼太郎著書
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          この国のかたち3

■ドイツヘの傾斜がすすんだ明治・昭和

<本文から>
 憲法についても、そうだった。
 憲法をつくろうという機運は明治十年代からあり、さまざまな検討がおこなわれたが、結局はドイツの後進性への親近感が勝った。
 フランス憲法については″過激″すぎるという印象だったし、英国については、わずかに大隈重信がかの国を参考にせよといったぐらいだった。
 ドイツについては、ひいきというよりも、安堵感だったろう。ヨーロッパにもあんな田舎くさい市民精神の未成熟な国があったのか、とおどろき、いわばわが身にひきよせて共感した。
 明治二十二年の憲法発布のときには、陸軍はまったくドイツ式になってしまっていた。
 ドイツ式の作戦思想が、のちの日露戦争の陸戦において有効だったということで、いよいよドイツヘの傾斜がすすんだ。
 法学や哲学、あるいは音楽も同様だった。
 やがて昭和期に入って、陸軍の高級軍人の物の考え方が、明治の軍人にくらべ、はるかにドイツ色が濃くなった。
明治の軍人には思考法に経験主義がたっぷり入っていたし、自国を客観視する能力も、また比較するやり方も身についていた。要するに、かれらはすぐれた江戸時代人だった。
 これにひきかえ、昭和の高級軍人は、あたかもドイツ人に化ったかのような自己(自国)中心で、独楽のように論理だけが旋回し、まわりに目をむけるということをしなかった。陸軍の正規将校の第一次培養機関は陸軍幼年学校だったが、ここでは、明治以後昭和のある時期までは英語は教えられず、ドイツ語が中心(他にフランス語、ロシア語)だった。
 陸軍が統帥権を根拠として日本国を聾断しはじめるのは昭和十年前後だが、外政面でまずやったのは、外務省や海軍の反対を押し切って、ヒトラー・ドイツと手を組むことだった。
 「どうして?」
 と、冒頭のアメリカの歴史学者がふしぎがるのは、当然といっていい。同国 人の私でさえ、この当時をふりかえると、「なぜ」と叫びたくなるほどである。
 以上はドイツ文化の罪ということでは一切ない。
 明治後の拙速な文化導入の罪でもなかった。
 いえることは、ただ一種類の文化を濃縮注射すれば当然薬物中寺にかかるということである。そういう患者たちに権力をにぎられるとどうなるかは、日本近代史が動物実験のように雄弁に物語っている。
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■秀吉は類なき独裁者になった

<本文から>
 若いころのかれは得手勝手者ではなかった。
 むしろ他者に対して気がねをし、相手の感情や利害を見る上では気の寺なほどに過敏なたちだった。
 が、政権をえて、独裁者になった。
 その政権はわずか十余年だったが、その間、かれは自分の輔佐機関を整備したとはいえ、日本史上、類なき独裁者になった。
 ほとんど、超越者にちかい権力だった。それでも、東海の徳川氏や九州の島津氏、また関東の北条氏が存在しているうちは、まだ十分以上に自己抑制のきいた政治感覚をもっていた。
 それらが消滅し、その権力がいわば無制限の宙空にうかんだときから、変になった。
 関東小田原の北条氏を征討して国内に敵らしい敵がなくなったとき、鎌倉で頼朝の像を見、
 「それでも君は名門にうまれたじゃないか」
 という意味のことをいったといわれる(『常山紀談』『関八州舌戦録』など)。頼朝とはちがい、自分は赤裸から身をおこして天下をえたのだという自負であった。これを、かれの一場の機智としてみるよりも、軽い″病気"の症候としてみるほうがいいのではないかル
 かりに、軽度のパラノイアと考えることにする。秀吉の性格や履歴、それに、敵をうしなってにわかに無重力的気分になったであろうことなどを考えあわせてのことである。
 パラノイアは、四十歳以後の、とくに男性にあらわれるらしい。
 病者がもつ妄想世界にかぎっていえば、その内部では明晰で、体系的でもあり、思考、意志、行動に完全な秩序があるようであるが、軽度な場合、決してまわりは変だとはおもわず、むしろユーモラスに感ずるくらいである。
たとえば、
 − 自分は、じつをいうとある高貴の血統の裔である。
 と言いだすとする。血統は、この病者が好むテーマの一つである。とくに秀吉は、血統のいい頼朝に対して右の場合では優越感をもちつつも、そのことに拘泥していた。
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■東京遷都は前島密の案

<本文から>
 それよりすこし前の三月十日、
 「江戸寒士 前島来輔」
 という署名で、大久保の宿所に投書をした者があった。
 みると、大きな構想力をもった意見で、精密な思考が明晰な文章でもっての べられており、要するに大坂は非で、江戸こそしかるべきであるという。
 大久保の卓越した決断力が、このときあざやかに躍動した。かれはこの一書生の投書の論旨に服し、江戸をもって首都とするに決めた。
 ″江戸寒士″の投書の要旨は、こんにち蝦夷地(北海道)が大切である、浪華は蝦夷から遠すぎる、とまず言う。
 ついで、浪華の港は小船の時代のもので、海外からくる大艦巨船のための修理施設がない。江戸には、横須賀の艦船工場がある。修理工場があってこそ安全港といえる。
 さらに浪華は市中の道路がせまく、郊外の野がひろくない。その点、江戸は大帝都をつくる必適の地である。
 浪華に遷都すると、宮城から官衝、第邸、学校をすべて新築せざるをえない。江戸にはそれがすでにそなわっている。
 浪華はべつに帝都にならなくても、依然本邦の大市である。江戸は帝都にならなければ、百万市民四散して、一寒市になりはてる。
 この筆者が、明治の郵便制度の創始者前島密(一八三五〜一九一九)であったことを大久保が知るのは、明治九年になってからのことである。大久保が前島密という稀代の制度立案家を前に、当時を述懐し、あの投書のぬしは君とおなじ姓だが、いったいだれだったろう、といったとき、はじめて前島は自分であったことを明かした。
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