司馬遼太郎著書
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          この国のかたち2

■家紋の源流は室町時代

<本文から>
  さらにはこれら地侍をルーツにして戦国期の武士や足軽が成立しもし、またその後の豊臣・徳川期の多くの大名も、その先祖はこの階層から出た。また民間にあっては江戸期(徳川期)の庄屋・大百姓のたいていも、室町期の地侍の子孫であると称した。このことをおもうと、社会像としての地侍は、いまの日本社会の祖であると考えていい。
 室町期でのあざやかな現象は、この地侍たちが本来農民でありながら家紋をもつようになったことである。またその一族郎党である惣の小農民たちも地侍と家紋を共有したり、独自の家紋をもったり⊥た。家紋という問題を軸にしても、室町期における革命的な というより多分に生物学的な才平均化運動の動態がうかがえる。
 室町社会の末流として−大いに整頓されてはいるものの−江戸社会がある。
 江戸社会では、農民は原則として苗字を公称できなかったものの、しかしたいていの農民は先祖以来の苗字をもっていた。
 苗字には、セットとして家紋が付属している。江戸期、苗字は公称できなくとも、家紋を用いることはさしつかえなかった。
 そういうわけで、江戸落語の大家さんが、
 「婆さん、羽織をお出し」
 といって、かけあいごとに出かけてゆくのである。
 また江戸期の村々では、たいていの農家が、紋付羽織だけでなく定紋入りの提灯や、定紋入りの祥をもっていた。村役についた場合や、冠婚葬祭のときに必要だったからである。社会の平均化は明治維新で成立したとはいえ、その遠くは、室町時代に地侍や惣の農民が紋章を用いるようになったことに源流があるといってもいい。
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■江戸長期政権の理由の1つは税金が安かったから

<本文から>
  江戸二百七十年の安泰をもたらした理由の一つは、天領(幕府直轄領)の税金が安かったということである。
 以下のことも、すでに触れたことだが、天領の税率は、鉄則のようにして四公六民が守られつづけた。たとえば奈良県(大和)の大半は天領で、税率は右のように安く、そのとなりの和歌山県(紀州穂川藩)は、最悪の時代、八公二民だった。おなじ農民が大名領にうまれるのと天領にうまれるのとで、天地のちがいがあったろう。
 ただし、ここでは税率について書こうとしているのではなく、徳川政権の内部の、ほんの一風景について書こうとしている。ついでながら、徳川政権の本質というのは、まず実質としては″最大の大名″ということだったことを知っておかねばならない。幕藩体制は、いわば大名同盟というべきもので、徳川家は、その大名同盟の盟主だったと考えていい。盟主が、対外的には外交権をもち、対内的には国家を代表していた。同時に自領(天領)に対しては一大名として統治していた。
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■明治政府は2大汚職事件があるが世界史上まれといえるぐらいに有能だった

<本文から>
  旧南部藩(雫・盛岡)の尾去沢鉱山は、江戸後期式下三大銅山"とよばれるほど活況を呈した鉱山だった。藩営だったが、幕末、藩は採掘権だけを豪商村井茂兵衛に与えた。井上らは官命ということで南部藩からこの鉱山を私的にとりあげただけでなく、井上の親戚の岡田平蔵という者に指名落札させ、さらには採掘権をもつ村井をいじめぬき、ついにそれをとりあげた。たまりかねた村井が、司法卿江藤新平(肥前佐賀)に訴え出たことで明るみに出たのである。江藤司法卿がしらべたところ、ことごとく村井のいうとおりだったという。
 火の手をみて、井上は機先を制し、大蔵省を辞職した。そのかわり鉱山の所有を岡田平蔵から自分に名義変更し、山の入口に「従四位井上馨所有銅山」と大書したといわれる。西郷のいう虎狼、福沢のいう人面獣心というのは、このことに相違ない。ときに、明治六年である。
 福沢が、明治十年、『丁丑公論』のなかで、西郷の述懐をつぎのようにいう。
 「ちかごろのこんなありさまでは、討幕のいくさは無益の労だった。かえって私どもが倒した徳川家に対して申しわけがない」
 その述懐は、この事件の衝撃によるものだったろう。
 そのうち当の江藤司法卿が佐賀に帰って不平士族にかつがれて乱をおこして敗死したため、事件の調べは縮小してしまった。
 おなじく長州人山県有朋が関与した疑獄は〃山城屋和助事件"というものだった。
 和助はもともとは萩城下の寺の小僧だったのだが、奇兵隊に入り、野村三千三と名乗り、その才気でもって奇兵隊軍監の山県に重宝された。それが維新後一転して横浜で貿易商になった。
 山県は、維新後早々、兵部省に出仕し、同省が陸軍省になってから大輔、陸軍中将になり、省の実権をにぎっていた。もともと山県と形影のようだった和助は省の独占的な御用商人になり、巨利を得た。だけでなく官金を自由にし、その官金でもって生糸相場を張りつづけた。ついに回復不能の大損をしたからこそ露攣るのだが、かれが消費した官金は六十五万円で、当時の政府歳入の一二パーセントにあたり、汚職が国家に与えた被害としては近代史上空前のものだった。
 これがあきらかになるのは、尾去沢事件の前年の明治五年なのである。江藤司法卿の命で捜査がはじまると、和助は一切の書類を焼き、陸軍省の応接室で割腹自殺して、すべてを淫滅した。
 このようなことがありつつも、明治元年から同十年までの明治政府が世界史上まれといえるぐらいに有能だったことをいっておかねばならない。教育、鉄道、逓信、内務行政、建軍など、近代化のための基礎はほとんどこの十年にやり了せた。とくに明治軍の廃藩置県の財政整理における井上の功と、それと並行した徴兵令による軍隊の育成という面での山県の功は、尋常なものではない。
 政府が有能なだけに、有司(官僚)専制という野の声がやかましかった。もっとも、専制と汚職が相共にできるような政体でもあった。
 行政府一つだけで、立法府(議会)がなく、司法府も独立していなかった。たとえば江藤司法卿といえども閣内の人間なのである。このため、かれは同僚の汚職を糾しきれず、その主張を貫くためには東京を奔り出て佐賀の乱をおこすしかなかった。
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