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<本文から>
さらにはこれら地侍をルーツにして戦国期の武士や足軽が成立しもし、またその後の豊臣・徳川期の多くの大名も、その先祖はこの階層から出た。また民間にあっては江戸期(徳川期)の庄屋・大百姓のたいていも、室町期の地侍の子孫であると称した。このことをおもうと、社会像としての地侍は、いまの日本社会の祖であると考えていい。
室町期でのあざやかな現象は、この地侍たちが本来農民でありながら家紋をもつようになったことである。またその一族郎党である惣の小農民たちも地侍と家紋を共有したり、独自の家紋をもったり⊥た。家紋という問題を軸にしても、室町期における革命的な というより多分に生物学的な才平均化運動の動態がうかがえる。
室町社会の末流として−大いに整頓されてはいるものの−江戸社会がある。
江戸社会では、農民は原則として苗字を公称できなかったものの、しかしたいていの農民は先祖以来の苗字をもっていた。
苗字には、セットとして家紋が付属している。江戸期、苗字は公称できなくとも、家紋を用いることはさしつかえなかった。
そういうわけで、江戸落語の大家さんが、
「婆さん、羽織をお出し」
といって、かけあいごとに出かけてゆくのである。
また江戸期の村々では、たいていの農家が、紋付羽織だけでなく定紋入りの提灯や、定紋入りの祥をもっていた。村役についた場合や、冠婚葬祭のときに必要だったからである。社会の平均化は明治維新で成立したとはいえ、その遠くは、室町時代に地侍や惣の農民が紋章を用いるようになったことに源流があるといってもいい。 |
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