司馬遼太郎著書
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          この国のかたち1

■日本人は、いつも思想はそとからくるものだと思っている

<本文から>
 −日本人は、いつも思想はそとからくるものだと思っている。
 とはまことに名言である。ともかくも日本の場合、たとえばヨーロッパや中近東、インド、あるいは中国のように、ひとびとのすべてが思想化されてしまったというような歴史をついにもたなかった。これは幸運といえるのではあるまいか。
 そのくせ、思想へのあこがれがある。
 日本の場合、思想は多分に書物のかたちをとってきた。
 奈良朝から平安初期にかけて、命を賭して唐とのあいだを往来した遣唐便船の目的が、主として経巻書物を入れるためだったことを思うと、痛ましいほどの思いがする。
 また平安末期.貿易政権ともいうべき平家の場合も、さかんに宋学に関する本などを輸入した。さらには室町期における官貿易や私貿易(倭超貿易)の場合も同様だった。
 要するに、歴世、輸入の第一品目は書物でありつづけた。思想とは本来、血肉になって社会化さるべきものである。日本にあってはそれは好まれない。 
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■宋学(水戸)イデオロギーが生きた

<本文から>
 こういう気分のなかで、光圀は学者をあつめて修史事業をつづけ、その没後もつづけられた。事業は水戸徳川家の財政を圧迫しつつも二百数十年も継続したのである。その気長さにおいて、日本史にまれな偉観であるといっていい。
 その修史態度は史料あつめや、史籍の校訂、考証においてすぐれていたが、しかし記述にあたっては″義理名分″をあきらかにし、忠臣叛臣の区別を正すという徴底的な宋学価値観の上に立ったために、後世への価値はほとんどない。光圀も雄大なむだをやったものである。
 ただ、この事業によって幕末、水戸が朱子学的尊王穣夷思想の中心的な存在になったことはたしかである。
 要するに、宋学の亡霊のようなものが、古爆弾でも爆発したように、封建制の壁をぶちこわしてしまった。
 もっとも、それによってひらかれた景色が、滑稽なことに近代だった。この矛盾が、その頃もその後もつづき、いまもどこかにある。
 これは夢想だが、もし江戸後期あたりにルソーの思想が漢訳されて日本につたわったとすれば、そういうグループの参加によって明治維新の思想も、器の大きなものになっていたはずである。
 現実には、その思想はあとから(明治十年前後)きた。革命政権というのは革命思想を守るものなのである。あとからきた思想は、当然危険思想あつかいにされてしまう。
 明治維新は、思想的器量という点では決して自讃に耐えるようなものではない。しかも、明治後、教育の面では、江戸期の日本的な″諸子百家″の思想までが教えられることがなく、ながく宋学(水戸)イデオロギーが生きたのである。左翼のあいだでさえ、水戸イデオロギー的な名分論のやかましい歴史がつづいてきた。
 過去は動かしようのないものである。
 ただ、これに、深浅いずれにしても苦味を感ずる感覚が大切なのではないか。
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■維新の功労者は旧主の統治権をうばいつつも旧主家に対して複雑な感情をもつ

<本文から>
 ところで、久光は新政府がまさか版籍奉還はすまいと思っていた。が、新政府は明治二年それをやった。久光は憂憤のやり場なく、鹿児島郊外の磯の別邸でひとり酒をあおり、石炭船を錦江湾にうかべ、終夜花火をうちあげさせたといわれている。明治維新による精神的な痛手は、日本一の勝者であるはずの島津久光においてもっともひどかったのではないか。
 久光は、西郷と同様、大久保利通をも憎んでいた。
 この両者が、太政官の二大巨頭でありながら、革命の成立後、笑顔をわすれたかのようであったのは、主筋から人格もろとも否定されつづけてきたことによるだろう。
 以上の諸例は、日本における国民国家が、フランス革命やロシア革命とは質のちがった深刻さの上に成立したことを私はいおうとしている。
 明治初期のジャーナリストで、旧幕臣でもあり、かつ大久保に親英した福地桜痴は、大久保のことを「渾身これ政治家」と言い、明治国家の基礎をこの人物がつくったことをみとめている。沈黙と慎重は大久保の自己表現であり、その風貌をあおぐごとに「北洋の氷塊に逢」うような思いがした、という(『甲東先生逸話』)。旧主を否定することによって成立した大久保としては、福地のいう「冷血」(同上)をもって、情熱のすべてを国家の建設にそそぐ以外になかったのにちがいない。
 大久保はおよそ儒教的な思弁性を好まなかったが、かといってヨーロッパずきでもなく、また文明開化をすすめながらも軽桃なところがなかった。あくまでも冷厳あるいは冷酷なほどに現実を見つづけた人物で、太政官のたれもがそういう大久保に畏服しきっていた。たとえば長州派の伊藤博文が、木戸孝允の弟分でありながら大久保のもとに身をよせ、木戸を不快がらせたりした。
 そういう大久保が、旧主筋を裏切ったという倫理の基本をゆるがすような呵責から生涯(明治十一年暗殺さる・四十九歳)まぬがれたことがなかったであろうことを思わねば、明治初年という時代は理解しにくい。大久保ほどでなくても、明治初年の太政官の重要な構成員の多くが、政治的には旧主の統治権をうばいつつも旧主家に対して複雑な感情をもち、その感情を礼節でおぎなっていたことは、いくつもの例証で知ることができる。高度な意味でのうしろめたさがかれらにあったのにちがいない。
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■秀吉は信長の嫉妬を買わぬよう、できるだけその才を秘めた

<本文から>
 四番日の秀吉については、よく知られている。
 かれは信長にとっての第二段階である美濃進出の準備期から出頭人になった。
 門地などはなく、いわば浮浪児のあがりで、信長によって泥の中から拾われ、実地のなかで信長の ″教育″をうけた。信長好みの気塊はあったが、個人的な武芸があったわけではない。
 信長は、結局、人間を道具として見ていた。道具である以上、鋭利なほうがよく、また使いみちが多様であるほどいい。その点、秀吉という道具には翼がついていた。
 秀吉は早くから信長の本質を見ぬいていた。この徹底した唯物家に奉公するために我を捨て、道具としてのみ自分を仕立てた。ふつうこういう人間にろくなのはいないはずだが、秀吉は稀少な例外といえる。ただしかれは自分を韜晦しながら、いつの時期からか、秘かに自分の天下構想をもつようになった。
 信長は、その死まで秀吉のそういう面に気づかなかったにちがいない。道具が構想をもつはずがないと思いこんでいた。
 やがて信長は秀吉という道具に、多面性を見出してゆく。早くから経理や補給という計数の才を見出し、ついで土木の才も見出した。
 計数と土木の才は、当時も、国主級の大将に不可欠なものとされていた。信長は当然、秀吉をおそれたはずだが、当の秀吉は主人の嫉妬を買わぬよう、できるだけその才を秘め、剛毅で質朴な前線指揮官であるべくふるまった。
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■日本人は中国人と比べ常に緊張している

<本文から>
 となりに、中国がある。
 顔かたちが日本人とまったくおなじというこの隣人に、私などは冬きせぬ興味がある。
 中国人はとくに個人がいい。
 「ほんとうは、ボクは日本人より中国人のほうが好きなんだ」
 と、こっそり私の家内の耳もとでささやいた老アメリカ人がいる。
 かれは若いころ日本語を学び、その後四十年以上、ジャーナリストとして日本と関係をもってきた。かれの理由は単純明快だった。
 「中国人はリラックスしているからね。」
 私は横できいていて、ひさしぶりで大笑いした。たしかに日本人はつねに緊張している。ときに暗鬱でさえある。理由は、いつもさまざまの公意識を背負っているため、と断定していい。
 鎌倉武士が自分の一所(所領)に命を懸けたように、いまもたとえば一百貨店の社員は他の百貨店に対し、常時戦闘的な緊張を感じている。自分の店内でも、自分の小寸へな売場を公として、他の売場に対して競争をしている。
 「日本人はいつも臨戦態勢でいる」
 と、私の友人の中国人がいったことがある。
 そこへゆくと、中国に住む大多数のひとびとは、歯揮いほどゆったりしている。そのときどきの政情に多少の懸念を感ずることがあるにせよ、ほぼ天地とともに呼吸し、食ヲ以テ天トナスー−食えたらいいじゃないか−という古来の風を、革命後ものこしている。
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