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<本文から>
「されば宮代川に土地と屋敷をあたえよ。扶持もあたえ、なお不足のことがあらば申し出させよ」
これによってかれら島平の漂着組十七姓の身分が決定した。
「朝鮮筋目の者」
という呼称のもとに階級を飛躍させ、武士同様に礼遇することになった。門を立て塀をめぐらすことをゆるし、さらには「武道師範二入門スルコトモ許」された。ただし侍といっても軍役には服する義務はなく、この点医官と同様であり、いわば非戦闘員たる郷土、ということであろう。
かれらの清澄な作陶活動がはじまった。まず陶土や紬薬の右をさがさねばならなかった。
しかし容易にみつからず、韓人たちは「韓や唐土とちがい、この国の山河はそういう土を生まないのではないか」となかば望みを失いかけた。島津義弘はこのころになると異常なほどの肩の入れ方をみせ、「国中のすみずみまで掘りかえせばどうか」ということで地理にあかるい家臣を韓人たちにつけて捜索させた。ついに、この技術にもっとも老熟した朴平意とその子貞用がみつけた。
白土であった。朝鮮本来の白焼をつくりだすその土が、揖宿郡成川村と川辺郡加世田村京ノ峰でみつかり、さらに軸薬にするための檜木も、滑宿郡鹿籠村で発見された。朴平意はその土で白焼の茶碗を焼きあげて献上すると、義弘は大いによろこび、
「朝鮮の熊川のものに似ている」
といった。
白は、李朝の特色である。卵白あり乳自あり灰白があるが、いずれも自にこれほど複雑な表情があるかとおもわれるほどの庸質を、とくに李朝前期の工人たちはつくりだした。朴平意がつくりだした白薩摩は、義弘がいったように似ているのみで、李朝の白さではない。李朝は、白磁である。薩摩には朝群ほど良質の磁器の土がないため、朴平意はやむなくこれを陶器とし、しかもこの自陶をできるだけ自磁に近づけるべく皮を薄くした。このため李朝がひらいた白とはまったく独自な、世にいう白薩摩の世界を朴平意はつくりだした。
義弘はそれを大いにつくらせ、あたらしい時代の支配者である徳川将軍家に献上した。諸大名にも贈った。白薩摩がこのようにして世間に出たとき、この道に衝撃をあたえた。李朝のような素朴さはもたぬにせよ、これほど高雅でこれほど気品にみちたやきものをかつて世間は目にしたことがなかった。
−薩摩はかつて武勇で知られた。いまはやきもので知られている。
とさえいわれた。 |
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