司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          故郷忘じがたく候

■島平の漂着組十七姓が白薩摩(焼き物)をつくった

<本文から>
 「されば宮代川に土地と屋敷をあたえよ。扶持もあたえ、なお不足のことがあらば申し出させよ」
これによってかれら島平の漂着組十七姓の身分が決定した。
「朝鮮筋目の者」
という呼称のもとに階級を飛躍させ、武士同様に礼遇することになった。門を立て塀をめぐらすことをゆるし、さらには「武道師範二入門スルコトモ許」された。ただし侍といっても軍役には服する義務はなく、この点医官と同様であり、いわば非戦闘員たる郷土、ということであろう。
 かれらの清澄な作陶活動がはじまった。まず陶土や紬薬の右をさがさねばならなかった。
 しかし容易にみつからず、韓人たちは「韓や唐土とちがい、この国の山河はそういう土を生まないのではないか」となかば望みを失いかけた。島津義弘はこのころになると異常なほどの肩の入れ方をみせ、「国中のすみずみまで掘りかえせばどうか」ということで地理にあかるい家臣を韓人たちにつけて捜索させた。ついに、この技術にもっとも老熟した朴平意とその子貞用がみつけた。
 白土であった。朝鮮本来の白焼をつくりだすその土が、揖宿郡成川村と川辺郡加世田村京ノ峰でみつかり、さらに軸薬にするための檜木も、滑宿郡鹿籠村で発見された。朴平意はその土で白焼の茶碗を焼きあげて献上すると、義弘は大いによろこび、
「朝鮮の熊川のものに似ている」
といった。
白は、李朝の特色である。卵白あり乳自あり灰白があるが、いずれも自にこれほど複雑な表情があるかとおもわれるほどの庸質を、とくに李朝前期の工人たちはつくりだした。朴平意がつくりだした白薩摩は、義弘がいったように似ているのみで、李朝の白さではない。李朝は、白磁である。薩摩には朝群ほど良質の磁器の土がないため、朴平意はやむなくこれを陶器とし、しかもこの自陶をできるだけ自磁に近づけるべく皮を薄くした。このため李朝がひらいた白とはまったく独自な、世にいう白薩摩の世界を朴平意はつくりだした。
義弘はそれを大いにつくらせ、あたらしい時代の支配者である徳川将軍家に献上した。諸大名にも贈った。白薩摩がこのようにして世間に出たとき、この道に衝撃をあたえた。李朝のような素朴さはもたぬにせよ、これほど高雅でこれほど気品にみちたやきものをかつて世間は目にしたことがなかった。
 −薩摩はかつて武勇で知られた。いまはやきもので知られている。
とさえいわれた。 

■世良の斬殺

<本文から>
−なにをためらう。
 と大喝してその気を鎮めさせなければならなかった。しかしいったん駈けあがって身を運動のなかに投じてしまえば、赤坂はさすがに練達の剣客であり、体が自然に行動した。赤坂はふすまをあけて踏みこんだ。行燈がついていた。世良は、裸体のまま仰臥している。はねおきたが闘おうとはせず、妓の名をよんだ。寝呆けていたのだろう。返事がなく、ないばかりか裸が開けはなたれ、そこに黒い影の侵入者が立っていることにやっと気づき、はじめていま自分が非常のなかにいることを知った。それからあとの世良の行動は一動作だけ敏捷であった。ふとんの下から短銃をとりだし、右手親指が撃鉄をひきおこした。
 撃った。不発であった。
 さらに撃った。これも撃鉄が鳴るのみで不発であった。すかさず赤坂幸太夫の脚がとび、躍進し、手刀をもって世良の籠手を撃ってその短銃をおとした。はずみで世良は壁へ背をぶちあてたが、そこへ突進してきた福島藩の遠藤条之助が世艮の両眼をなぐり、さらになぐつた。赤坂は背後にまわり、世良のきき腕を逆手にねじあげつつ、頸をしめた。遠藤がおのれのひざをあげて世艮の睾丸を蹴った。世良のからだは、骨が溶けたようにやわらかくなった。失神したらしい。それを姉歯武之進が用意の捕縄でしばった。それをすみへころがしてから三人肩で息をしながら顔を見あわせたが、まだ実感はおこらなかった。そこにころがっている裸体の男が、ここ二カ月、奥羽の天地をふるえあがらせた官軍参謀であろうとは、まだ十分に信じきれなかった。
 一方、世艮の書記勝見善太郎は剣を抜いて戦い、いったんは田辺覧音をしりぞけ、二階欄干から階下の庭へとびおりた。田辺覧青も脇差をかざしてとびおり、庭に待ち伏せたう一が人数をはげまして、棒、梯子で追いつめさせ、やがて斬り殺した。
 世艮は、裸形のままひきたてられた。武士に対する礼ではなかったが、
 「化けの皮をむけば、どうせ長州の士官姓だ」
 とし、そのままう一の家に連れてゆき、籾干庭にひきすえ、それへうずくまらせた。世艮は顔をあげず、病犬のようにふるえつづけていた。やがて付近にいる仙台藩士があっまってきて、それを稼の上から見物した。

■夫の知らぬ間に、たまが切支丹に入信受洗

<本文から>
 忠興はすでに修道士がつとまるかもしれぬほどに聖書知識をもっていた。すべてたまにそれを口うつしするために出来あがって行った知識で、そのくせ忠興は依然として信仰をもつに至らない。かれのこの伝道の動機はたまを外出させて衆目に曝したくないというただ一つの目的のためであった。たまを邸内にとじこめ、できるだけの贅沢をさせた。たまが、世間の最先端の宗教を知りたいというがために、忠興がこのようにして−つまり親鳥が空中から小虫を獲ってきては仔鳥にあたえるようにしてそれを伝えた。が、忠興はたかをくくっていた。たまがまさか入信受洗するとはおもわず、あくまでもこれは彼女の知的娯楽のためであるとおもっていた。
 たまのおそるべき知的欲求は、天主の教えをより深く知るためにラテン語とポルトガル語を邸内で独習しはじめたことであった。これらの書物も、忠興が入手してきて彼女にあたえた。信じがたいほどのことだが、後年、彼女はこの二つの言葉の読み書きがポルトガル人同然の自由でできるようになった。
ところで、忠興の滑稽さは、かれの洞察力では窺いきることのできぬ彼女の奥底ですでに切支丹への傾倒がはじまっていたことであった。もはや知的関心の段階はすぎ憧憬がはじまり、その憧憬の段階もおわり、彼女の信仰は小侍従と同水準か、それ以上に高まっていた。忠興は、知らなかった。
 忠興のつくったいわば牢獄にいるたまは、かつて、
−悲しむ者は幸福なり。
というキリストの言葉を知ったとき、儒教よりも禅学よりも、この一語だけが自分を救いうるとおもった。傾倒の最初はこのことばからであった。父母とその一族をうしなってみずからも配所に移されたとき、たまはこの世で自分ほど不垂丁な者はないとおもったが、この言葉を吐いた人はおそらく生きている者の悲しみの底までなめつくしたひとであろうと思った。たまのキリストヘの傾斜は忠興がそうおもっているような思想的関心ではなく、キリストの肉声を最初から恋うた。キリストの生身への恋情であり、あがくようにしてキリストの肉声をより多く知ろうとした。これは忠興にはかくさねばならなかった。
 「天主は謙る者に恩寵をあたへ給ひ、傲慢なる者には敵対し給ふ」
 ということばをきいたとき、傲慢なる者として、父を殺した秀吉のいまを時めく姿をおもった。彼女が復讐すべき秀青はたれの手を待つまでもなく、キリストの敵対を受ける。この断言は儒教にも禅にもなかった。光秀の遺児である彼女としてはこの世のいかなる者−忠興をふくめて−よりもキリストを恋い奉るのは当然であろう。

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