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<本文から>
事件内容も、明らかになった。金子の同行者の証言により、あの水兵二人は、二人とも金子によって斬られている。
福岡藩では、大隈の調べに大いにあわて、土佐藩の本国に対しては、重役戸田佐五郎、小田部竜右衛門を派遣して謝罪し、土佐藩京都藩邸にも謝罪使を送った.
罪状明白になったので、朝廷では、福岡藩に対し、被害水兵の遺族に対し賠償金を出すことを命じ、さらに当夜金子と同行した栗野慎一郎(後子爵)に対して刑法官から禁錮を命ぜられた。
ところが、これが、これほど天下を騒がした事件の下手人である金子才吉は、すでに居ない。
事件の当夜、旅宿にもどって酔いがさめたときに藩への迷惑のかかることを怖れ、切腹して果ててしまっている。
その事件の経過の壮大さのわりには、あっけなさすぎるほどの幕切れであった。
ひたすら土佐藩に嫌疑をかけたパークスはこの意外な結末に後悔し、明治四年正月二十八日付で、山内容堂に対し、英文の詫び状を送っている.
以上、筆者は、なるべく資料にもとづいてこの事件を綴った.そのほうが、虚構以上に幕末のある時期と、そのなかに息づいた人間を描きうるか、と思ったのである。
さらに、二、三の個人のその後の運命に触れると、菅野覚兵衛は維新後政府の海軍に入った。海援隊士の何人かは爵位をもらうほどに栄達したが、かれだけは海軍少佐で退官になっている.
坂本はその宿願の大政奉還樹立後、非命に斃れた。
岩崎は、海援隊と土佐商会によってもっとも多くの幸運を得た。
まず海援隊が紀州藩船との衝突事件で得た賠償金七万両、それに海援隊資材、さらに大坂西長堀の土佐藩邸などが、後藤象二郎の肚づもりで、岩崎に与えられている。その理由は維新史のなぞに近い.
岩崎はそれらの資金、資材によって海運業をおこし、のちの三菱財閥の基礎をつくった。 |
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