司馬遼太郎著書
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          慶応長崎事件

■慶応長崎事件のあっけない顛末

<本文から>
  事件内容も、明らかになった。金子の同行者の証言により、あの水兵二人は、二人とも金子によって斬られている。
 福岡藩では、大隈の調べに大いにあわて、土佐藩の本国に対しては、重役戸田佐五郎、小田部竜右衛門を派遣して謝罪し、土佐藩京都藩邸にも謝罪使を送った.
 罪状明白になったので、朝廷では、福岡藩に対し、被害水兵の遺族に対し賠償金を出すことを命じ、さらに当夜金子と同行した栗野慎一郎(後子爵)に対して刑法官から禁錮を命ぜられた。
 ところが、これが、これほど天下を騒がした事件の下手人である金子才吉は、すでに居ない。
 事件の当夜、旅宿にもどって酔いがさめたときに藩への迷惑のかかることを怖れ、切腹して果ててしまっている。
 その事件の経過の壮大さのわりには、あっけなさすぎるほどの幕切れであった。
 ひたすら土佐藩に嫌疑をかけたパークスはこの意外な結末に後悔し、明治四年正月二十八日付で、山内容堂に対し、英文の詫び状を送っている.
 以上、筆者は、なるべく資料にもとづいてこの事件を綴った.そのほうが、虚構以上に幕末のある時期と、そのなかに息づいた人間を描きうるか、と思ったのである。
 さらに、二、三の個人のその後の運命に触れると、菅野覚兵衛は維新後政府の海軍に入った。海援隊士の何人かは爵位をもらうほどに栄達したが、かれだけは海軍少佐で退官になっている.
 坂本はその宿願の大政奉還樹立後、非命に斃れた。
 岩崎は、海援隊と土佐商会によってもっとも多くの幸運を得た。
 まず海援隊が紀州藩船との衝突事件で得た賠償金七万両、それに海援隊資材、さらに大坂西長堀の土佐藩邸などが、後藤象二郎の肚づもりで、岩崎に与えられている。その理由は維新史のなぞに近い.
 岩崎はそれらの資金、資材によって海運業をおこし、のちの三菱財閥の基礎をつくった。
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■天誅組と祐次郎

<本文から>
「なんだか、わしの名を言っているようだ」
 と、鈴木が、祐次郎にいった。
 祐次郎は立ちあがった。
 そのとき二十数人が、疾風のように乱入してきている。
 土州浪士上田宗児が、大刀をふるって鈴木の前に立ちはだかり、「いよいよ天朝にあっては関東御征伐を仰せだされた(と天誅組の一統は信じていた。これは双方にとって悲劇であった)。京都より追々下向これあるも、われらは近国取組として中山大納言御七男侍従様を大将にあおいでまかり越した。よってそのほう支配の代官所、郷村、即刻に引き渡すべし.応か、それとも否か」
 その間、逃げだそうとした按摩の嘉吉がその紋服のために役人とまちがえられ、天井に血煙をあげて斬られた。
 祐次郎は、代官をかばおうとした。代官と眠が合った.
 −だから言わぬことではなかったでしょう。
 と言いたかった。が、その瞬間、代官は首を横にふった.上田宗児の大刀がうなりをたてて落ちてきた。源内の首が、四、五問むこうにころがった.
 その間、手付長谷川岱助も斬られた。手付伊東敬吾、同黒沢儀助も、首になった.
 祐次郎はすばやい。
 塀を越えてのがれた.
 が、身重のお縫を思いだし、ふたたび構内に入ってお長屋へ駆けこみ、お縫をたすけつつ北塀を乗りこえた。下は茄子畑である.
 そこで浪士数人に見つかり、「縫、かまわずに逃げろ」と奮戦し、お縫が逃げたのを見とどけてから、須恵の庄屋に駆けこみ、その後、一夜のあいだに知りあいの庄屋を転々としたが、ついにのがれちれぬところとみて、その翌暁、村の者に訴え出させ、大島村の明西寺で自刃した。
 首は、五条の須恵の道はたに梟された。ならんでいる首が、五つある。代官鈴木源内、元締手付長谷川岱助、手付用人黒沢儀助、手代書役常川庄次郎、それに祐次郎の首。
 捨て札にかかれた罰文は次のようである.
「この者ども、近来違勅の幕府の意を受け、もっぱら有志(志士)の者を押えつけ、幕府を朝廷同様に心得、わずか三百年来の恩義を唱え、開闢以来の天恩を忘却し、これがため皇国を辱かしめ、夷荻の助けと成り侯事もわきまえず、かつ収斂の筋もすくなからず、罪重大、よって天誅を加える者也」
 当の天誅組は、それから一月後に諸藩の包囲を受け討滅された。乾十郎は大和を脱出して摂津の江口に潜居を捕えられ、元治元年七月二十日、蛤御門の騒乱の最中に六角獄で斬られた。贈正五位。
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