司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          風の武士・下

■敵の高力伝次郎に踊らされていた信吾

<本文から>
「意外な名が出た。信吾はおどろいて、
 「高力伝次郎がどうした」
 「あのかたは、実は高力伝次郎というお名前ではございませぬ」
 「なに」
 「ちのとおなじ安羅井人なのでございます。そのことは、高力きまがはじめて道場にお見えになったころに、ちのは亡父からきいて存じておりました」
 「わからぬ。その高カが、なぜ紀州屋の手先などになった」
 ちのの語るところでは、高カの亡父は、都合あって安羅井国から離れ、下界に住んだという。
 「あの男は、大和郡山の浪人の子ではなかったのか」
 「いつわりでございます。もともと、父子とも紀州屋に養われ、紀州屋徳兵衛どのが高力きまの亡父からこの隠し国の秘密をきいて欲心をおこしたのが、事の発端だったのでございましょう。紀州星は高力さまを養って江戸の駒形町に住まわせ、退耕斎に接近きせて、安羅井国のことどもを探ろうとしたようでございます」
 「高カにすれば、単に紀州屋の指し金だけではあるまい。ちのどのを知るに及んでからは、これを伴って安羅井国へゆき、夫婦になってこの国の財宝をひとり占めしようと思ったのではないか。それでようやくわかった0。おれは蟾蜍峰の山麓で夜営中の紀州隠密を襲ったとき、高カは、手をつかねて、配下がおれにむざむざと斬られてゆくのをだまって見ていたような気色があった。高力にすれば、蟾蜍峰の入りロまでは配下の者も必要だったのだろうが、安羅井国に入ってしまえば、かえって邪鹿になる。−おれはまるで、高力のために働いてきたようなものだ」
 「柘植きまらしゅうございますわ」
 「馬鹿ということか」
 「いいえ。ご気力がありあまっていらっしゃるのです」
 「智恵が足りないということだ。気力がありあまって智恵が足りないからこそ、おれはこんな人界の果てまでやってきた。−ちの」
「はい」
「おれはようやくわかったよ。江戸を発って以来、おれが命を賭けて大働きに働いてきたのは、結末からいえば、高力のためだった。柘植信吾は高力伝次郎の無二の味方だったわけさ。そうだろう。そのはずだ。−いや」
 信吾はちょっと首をひねって、
「それだけではない。高カがおそらく、安羅井国に来て以来、長老どもの間を駈けまわって、機嫌をとり結び、ちのの婿になろうとしているのに相違ない。おれたちをどうするかという長老の評定が長びいているのは、そのせいだ。高力が婿と決まれば、おれや早川夷軒はたわいもなく殺される。そういう筋だ。それをおれに云わないとは、ちのも悪人だねね」
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■幻の安羅井国はユダヤ人の国という説

<本文から>
 お勢以は、心配そうに、信吾の肩に手をのせた。
「だいじょうぶ? そんなに酔って。−で、それからどうしたの?」
「それまでき」
「だから、きいてるの。どうしたの?」
「それっきりだ。あとは覚えていない」
「ほんと?」
「どうやら、おれは力がつきてその場に昏倒してしまったらしい。そのあと、しびれ薬でものまされたのか、ひどく夢をみたようでもあった。なんにちもねむった。目がさめたときは、真昼だった。おれは草の上でねていた。そばに、路用の金と、食べものがふんだんに置いてあった」
「ちのさんは?」
「いなかった」
 「安羅井人さんは?」
 「いない。たれもいなかった。安羅井国そのものがなくなっていた。見わたすと、家々はあった。しかし、灰になっていた」
 「町を焼いて、どっかへ行っちゃったの」
「そうらしい。そのとき、おれは早川夷軒のいったことをおもいだした。夷軒の説では、あの者たちは、ゆだや人という者の一派だという。大むかし、羅馬という国に国をうばわれてからあの者どもは諸方に流浪した。地上のさまざまな国に仮寓し、また、かれらの仲間だけが知っている隠し国をひらいた。安羅井の囲はその隠し国の一つだという。千年以上もあの熊野の山中にすみついてきたが、それがこんどのことで世間に露われたがために、遠い別な隠し国へ移ることになったのだろう」
 「どこへ行ったの」
「わからない。しかし、草の上で倒れているあいだ、おれは妙な夢をみた・その夢の景色は、新宮あたりの浜辺らしかった。夜だったが、月が出ていた。ばけもののように大きな月だった。おれが浜辺で見送るうち、安羅井人たちが乗る大きな船が、沖へむかって乗りだした。みるみるうちに、その船が、月にむかって漕ぎ昇ってゆくのだ」
「ばかね」
「なぜだ」
「それは、かぐや姫の物語じゃないの」
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