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<本文から> 目をつぶっていたが、ねむっているわけではなかった。
平間退耕斎が見せしぶった丹生津姫草紙のことを考えていたのである。
(あの絵草紙一冊きえあれば)
と、信吾はうとうとと考えていた。
(熊野にあるという安羅井の隠し国に行〈ことができる)
絵草紙は、安羅井国で作った地図がわりのものだろう。安羅井人とは人種のちがう平間退耕斎を江戸駐箚秘密公使に委嘱するにあたって、何かの必要のためにその絵図面を渡してあったものに相違ない。
(奪うべきだった)
まず、それを考えた。しかし、折角、手に入れたあの絵草紙を、なぜおれは素直に退耕斎に返してしまったのだろう、なぜか。
答えは、簡単だった。信吾自身に、その問題はあった。この事件における自分のすわるべき位置を、信吾はまだ決めていなかったからである。
公儀隠密という役目に忠実なら、むろん奪いとってしまう。公儀の意思は、安羅井国の保護などという体のいいことよりも、もっと直截に、安羅井国が蔵しているという金を力ずくでも押収してしまいたい、というところにあった。信吾がその意思に忠実なら、退耕斎を斬りすててでも、絵草紙は奪いとみのが当然だった。
(しかし、おれは公儀の手先にはなりたくない。柘植信吾は、どこまでも柘枯信吾でありたいもものだ)
そうは、思う。
ところで、柘植信吾の位置というのは、いったい何だろう。
わからない。その肝腎な点を、当の柘植信吾自身が、まだわかっていないのである。
(これは、滑稽だな)
信吾は、思わず噴きだした。位置がきまらないうえに、信吾はあの老残の伊賀者がなんとなく好きだったし、それに、ちのに嫌われたくはなかった。そういうあいまいきが、信吾をして、肝腎の絵草紙を、むざむざと退耕斎の手にもどしてしまうはめになったのだろう。
「まあ、そういうところだ」
「寝言?」
部屋の隅で片付けものをしながら、お勢以がこちらをみた。
「うん」
信吾は、お勢以のほうをみて、
「まあ、寝言のようなものき」
云いながら、とりあえず明朝起きぬけに福井町の練心館道場を訪ねてみようと考えた。とたんに、くすくすと笑いだして、
(おれは、どうも、のんきな隠密だな)
自分のことながら、柘植信吾という男がおかしかった。
(とにかく、退耕斎をだましすかしてでも、丹生津姫草紙をとりあげることだ。江戸にうろうろしていることはない。絵草紙を手に入れた上で、安羅井国へおれは旅立−。そうきめた) |
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