司馬遼太郎著書
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          果心居士の幻術

■弾正の最期

<本文から>
  弾正は小走りに庭へ出た。
 そこに、陽射しをうけて光る白い石の群れがあった。
(どこじゃ)
 果心の姿がみえない。
 きょときょとと探していると、不意に目の前の石が動いて、
「ここじゃ」
 と笑った。果心が、のびやかに石にもたれ、あごを空にむけて寝そべっている。
「なに用じゃ」
「別れにきた。ながいつきあいであったが、梵の命ずる運命は詮もない」
「ほう、どこぞへ行くのか」
弾正はほっとした。京の婦女子の好きなお伽草子にそのようなことが書かれていた。疫病神の去るときは、かならずあいさつに来るものだと。−弾正は自分でもたまげるほどの明るい声を出して、
「いずれへ行く」
「行くのは、おぬしじゃよ」
弾正が死んだのは、その日の翌日である。
 死に至るまでに多少のいきさつがあった。城は、貯蔵されている糧食、硝薬の量からみてまだ一月は持ちこたえられるはずであったが、弾正の策に軋騎があった。三日ばかり前に一人の家士をよび、
「石山の本願寺へ使いせよ」
 と命じた。法主顕如に手紙をもたせて援兵を乞おうとしたのである。が、弾正の不運はこの家士の閲歴にあった。かれは筒井家の譜代相伝の侍で、かつて順慶が一時所領をうしなったとき、主家を出て弾正に仕えた男なのである。人を信じないことで生涯を送ってきた弾正は、最後になって小児のような無邪気さで人を信じた。男は信貴山を降りると石山へはいかず、順慶の陣へ行ってその旨を明かした。
「弾正、もうろくしたな」
 おりから干し豆を噛んでいた順慶は、あやうく豆が気管に入るほど笑ったという。順慶は早速二千の精兵をととのえ、本願寺兵に仕立てて城内に送りこんだのが、果心が別れを告げにきた翌夜半であった。未明とともにその兵が城内で蜂起し、同時に織田方は総攻撃を開始した。数刻で城はおちた。弾正は秘蔵の平蜘蛛の茶釜を微塵にくだき、わが手で命を絶った。−むろん果心といえども、弾正のこんな最期まで予見していたわけではなかろう。会いにきたのは、この男なりの予感があったからにすぎまい。
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■果心の最期

<本文から>
 果心は、ここへ通された最初から順慶が連れている総髪の者が気になっていたらしい。その場を周旋する同朋の者に、再三、
 「あの者を下げられたい」
 と頼んだがきき入れられず、
 「やむをえぬ。ではたった一つだけ仕ろう」
 といって、巨大な香炉を運ばせ、そのなかに用意の香を投じてつぎつぎに焚きくすべた。
 「つぎに、戸障子を」
 「戸障子をどうするのじゃ」
 同朋がいった。
 「閉じる」
 秀吉は、許してやれ、といった。庭へひらけているその側を閉めきると、白昼とはいえ、人の目鼻もさだかでない暗闇となった。
 しばらく暗闇のなかに異様な香のにおいのみが満ちていたが、やがて百人の者がことごとく声をのんだ。果心の座とおぼしいあたりで、茫っと、人身大の燐光がほのむらだったのである。
 人々が声をのむうち、燐光は次第に人の形をととのえてゆき、やがてそれは、ひなびた小袖を着た女人の姿になって、紙のように白い顔に髪を垂らしてゆらゆらと立った。
 むろん、一座の者のたれもがその女に見おぼえがない。ただ、秀吉のみが声をあげて立ちあがった。−−果心が現出したこの亡霊がたれであったか、秀吉にどういううらみをもつ者なのかは果心伝説のどの種類にも明らかでなく、ただ「秀吉公弱年のみぎり、野陣にて犯せし女ならん」とのみ伝えている。
 秀吉が腰をおろすとともに亡霊は消えた。燐光も消えた。−それとほとんど同時であった。果心の肉体は、骨を断ち割るぶきみな音とともに板敷の上にころがっていたのである。場所は大広間ではない。果心が斬殺された場所は、なんと、大広間からはるかに離れた納戸の部屋であった。果心はいつの間にか大広間を抜け出、納戸にひそんで法力を使っていたのである。斬った男は、順慶がこの日、秀吉の許しをえて連れてきていた潮州大峰山の修験者だったという。名を玄鬼といった。果心とはかねて顔見知りであり、どういうわけか、かねて果心が苦手にしていた者だったといわれる。果心の術が、この男のもつ何らかの術に破れたということになるわけである。玄鬼のことは、それ以外に伝わっていない。
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■飛び加藤の最期の芸

<本文から>
 「奇験なはなしじゃな。わが国天台顕教のなかに、毘沙門堂流というものがある。僧明禅がそれを興し、秘事法門の口伝を遺したというが、存じておるか」
 「それは」
 しかじかであると答えてよどみがなかったから、いよいよこの男を珍重する気になったが、怖れはさらに深まった。
 ついに、九日日の夜、これを殺すことを決意し、十日日の夜、万端の支度をととのえ、飛び加藤を春日山城によんだ。
 廊下に人数を伏せ、武者隠しにも屈強の剣客を忍ばせて、謙信は謁見した。
「ほう、こよいはなんぞ、宴でもなさるのでござりまするか」
 この夜は、ことさらに配慮して部屋に数人の重臣を同座させたのみだったから一同はけげんな顔をした。
「ざっと二十人ばかりの心ノ臓の鳴る音が、拙者の耳には聞え申すわ」
「酒をのませてやれ」
 小姓が、酒器を持って飛び加藤の膝の前においた。むろん、毒酒である。小姓が注ごうとすると、
「待った」
 手で制し、
「ご趣向は、相わかり申した。ひとつ、飛び加藤の最期の芸をお目にかけよう」
 杯を膝の前の板敷のうえに置き、小姓の手から錫子をとりあげ、みずからの手で杯に酒を注ぎはじめた。
 「ご覧うじろ」
 同座している者が総立ちになった。錫子の口からこぼれ出たものは酒ではなく、二十個ばかりの小さな人形だったのだ。人形は杯の上に落ちては板敷の上にとびおり、やがて一列になって踊りはじめた。あまりの奇異に一同が見とれているうち、
 「あっ」
 飛び加藤の姿は、どこにもなかったのである。枚数の上には、漕がこぼれているにすぎなかった。
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■松原事件の真相

<本文から>
  (わかった。野田は、土方の腹心やったな)
 それで答えが出た。土方は、なにかの都合で松原をひそかに葬り去らねばならぬ必要があり、その暗殺を柳剛流の野田治助に命じたのではないか。
 (野田なら、やりそうや)
 前例がある。副長助勤武田観柳斎が薩藩に通じているという疑いで、竹田街道抜取橋の祝で斬られたのも、密命を下したのは土方歳三であり、下手人は、隊の剣道師範斎藤一と野田治助だのたといわれている。七番隊組頭谷三十郎が、租由不明で粛清され、祇園石段下で屍を横たえていたという件の執行者も、野田だったという噂があった。
 (野田が、松原を乾そうと思って、いきなり背後から斬りつけた……)
 与六は、安西格右衡門の最初の血痕があったという大橋東端の欄干のそばに立ちながら、考えた。
 (ところが、松原忠司は泥酔していた。斬りつけられたとき、すぐ前へ飛んで身をかわしたが、そこは酔眼や。目の前の武士が、刺客にみえた。安西である。見境もなくその男を敵だと思って斬り下げた。最初は浅手だった。というのは、仰天した安西が、土手へ逃げ、河原へ逃げる力をまだ残していたから。 − 松原は追うた。野田も、そっとあとに続いた。松原は河原で安西を斬った。事の意外におどろいた野田は、他日を期して、とりあえず身を潜めてその場から消えた)
 死骸を安西の家へ担ぎこんで遺族であるお茂代の顔をみたとき、人情で、自分が殺したとはいえなかったのだろう。
 ましてお茂代に好意を抱きはじめてからは、いよいよ自分が亡夫の仇であるとはいえなくなり、その自書の念から、必要以上にお茂代に親切にした。むろん、土州者が斬ったとい、のはそういう嘘をかくすための出まかせにすぎない。
 あのとき松原は赤あぎの野田治助の存在に気付かなかった。気付かなかった一事でも、現場の松原はしたたかに酔っていた。
 (罪は、松原に斬りかけた赤あざにある。松原はたしかに下手人やが、酒で胡乱が来ただけのことや)
 とはいえ、べつに証拠の薄い話だから、与六はこのままを土方に伝えるゎけにはいかなかった。
 与六は、前川屋敷へ参上した。一刻ばかり待ったのち、土方が縁へ出てきた。
 「やはり、松原稼が下手人のようでございますな」
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■松原は土方に追い詰められて心中

<本文から>
  「私も自明しどすさかいな。口に出せぬことがある」
 「なあに、心配はいらん。みろ、与六」
 松原は、正座したまま、足をはねあげて跳びあがり、宙でくるりと一回転して再び正座し、数度、くるくるとその奇妙な動作を繰りかえして、
 「おれはこれほど喜んでいる。うそをついているのは苦しかったぞ」
 根は単純な男なのだ。笑顔を残して、隣家へ去った。
 日が暮れてから、もう一度、松原がやってきて、土間の暗がりへ与六を呼んだ。
 「打ち明けたぞ」
 「どうでございました」
「ところが、お茂代はとっくに気付いていた。おれが事情をいうと、やむをえませぬ、夫はいわば不運でございましょう、と許してくれた。おれは位牌にわびた。しかし、おれは苦しい。打ち明けた以上、まさか、お茂代とは夫婦になれまい」
「ほう、夫婦事はまだやったのでございますか」
「ばかめ。おれはそこまで悪人ではない」
 松原はそうは言ったが、やはり男女の仲は勢いがつけばどう仕様もないらしく、その後与六がそれとなく注意している所では、どうやら二人はその夜を境に出来てしまったようだった。与六は、一方では軽い齢軒をおぼえ、一方で松原とお茂代のために祝福したいような気持にもなった。
 ある日、屯所へゆくと、例の噂話の好きな南部訛りの武士が寄ってきて、
「松原助勤は、とんでもない手だてで女を寝とったらしいな」
「はて」
「とぼけるな。みんな知っている噂だ。しかも、お前がそのことで開きまわっていたことも、平隊士のはしばしまで知っている」
(あっ)
 土方が執拗に与六に調べさせたのは、事実を明らかにするよりも、与六を動きまわらせることによって、噂をひろめるためだったのだ。噂の中で、松原を孤立させるためではなかったか。
「篠原助勤もいっていた。おなじ柔術師範として忠告をせねばならぬ、とな」
 (これは、いかん)
 あわてて篠原をさがそうとしたが、違わるく、つい先刻、伏見の奉行所へ出張したばかりだった。
 慶応二年四月二十日、新選組柔術師範頭松原忠司は、お茂代と心中した。
 土方が捏造した噂がついに松原の耳に入り、それに追いつめられた結果だった。
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■八咫烏

<本文から>
  「天鎮女は、よい女であった」
 八咫烏の目が、にわかに動いた。どうやら、話は自分の出雲族の血に有利らしいと気づいた。
「私とは、幼いころから友垣だった。ともに巫女になった。そのころ、葛城系の巫女と飛鳥系の巫女とが争うたことがあり、葛城系の巫女が敗れて、殺されたりした。天鋲女は追われて、熊野から牟婁へ流れて行ったときく。私は葛域系の巫女であったが、見かけのとおり、しぶとい女ゆえ、逃げずに踏みとどまり、いつのほどか友垣もみな死に絶えて、このとおり巫女のたばねとなった。−お前が、その天鎮女の息子なら」
「天鎮女の息子です」
「そうか。ならば、このさき、くさぐさ、目にかけてやろう」
「いや」
 八咫鳥は、かすかに動揺した。出雲族の巫女の子だと云いきってしまう位置が、はたして海族の仲間のなかで暮してゆくのに、よいか、わるいか。
「わしは、種族は海族のつもりでいる。とくに、その理由で目にかけられては、暮しにくいようにおもう」
「そうか。そんなものか」
天細女命はしきりとうなずいていたが、べつに、八咫鳥の気持が軒みこめている様子でもなかった。
 海族のヤマト平定は、以上のようなあらましで、第一期の事業を終えた。
 のちの世の伝説では、イワレ彦が王となり、クメつまり大来日命が宮穀の護衛隊長に、道臣命は築坂邑の領主に、弟滑は猛田邑の県主に、弟磯城を磯城邑の県主に、といったぐあいに、功臣、内応者はそれぞれ抜擢されて顕職についた。
 八咫鳥に対しても、イワレ彦はその功にむくいるために重職をあたえようとしたが、かれはなぜか固辞した。想像するに、混血児としての随劣な処世につかれはてたのであろう。
 八咫烏は、ついに孤独であった。かれは、当時未開の原野であった山城の地に宮居をたてることをゆるされたいとねがい、イワレ彦はそれをゆるした。
 いまの比叡山麓に、御生山という小さな岡がある。八咫鳥は、この岡のうえに住んだ。八咫烏を祭神とする御蔭神社という各の古社が、その岡に残っている。京福電鉄三宅八幡駅の東北にある。
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