|
<本文から>
小笠原長行の世間における声望は、一時におちてしまった。
その逃亡は、小倉藩士さえ知らず、七月三十一日の夜半、小倉藩の高官が長行の指示をあおぐべく城山のその公室に入ると、もぬけのからであった。
長行は、この日の夕刻、城の後門からひそかに小舟に乗って逃げたのである。随行は、かれの幕僚である幕府役人三人であった。
残された小倉藩としては、九州の諸蒲との折れあいもうまくゆかず、八月一日、結局はみずから城に火を放って退去した点も、石州口の浜田藩と似ているが、いずれにせよわずか二千人にも満たぬ小倉口の長州人のために大幕軍がこうももろく崩れたということは、天下の人心を大きくゆるがした。
「幕府は、あの程度のものか」
ということに、天下の士人ははとんどぼう然としやがてはどの藩も、
−ああいう幕府に従っていては、大怪我をするかもしれない。
という気分が譜代藩にさえでき、長州風の一蒲割拠主義とまでゆかないまでも、諸藩がみずからの独立性を強くしはじめたことはたしかであった。天下の気分は一変した。 |
|