司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          花神・下

■中心者が逃亡し幕府離れが進む

<本文から>
 小笠原長行の世間における声望は、一時におちてしまった。
 その逃亡は、小倉藩士さえ知らず、七月三十一日の夜半、小倉藩の高官が長行の指示をあおぐべく城山のその公室に入ると、もぬけのからであった。
 長行は、この日の夕刻、城の後門からひそかに小舟に乗って逃げたのである。随行は、かれの幕僚である幕府役人三人であった。
 残された小倉藩としては、九州の諸蒲との折れあいもうまくゆかず、八月一日、結局はみずから城に火を放って退去した点も、石州口の浜田藩と似ているが、いずれにせよわずか二千人にも満たぬ小倉口の長州人のために大幕軍がこうももろく崩れたということは、天下の人心を大きくゆるがした。
「幕府は、あの程度のものか」
 ということに、天下の士人ははとんどぼう然としやがてはどの藩も、
−ああいう幕府に従っていては、大怪我をするかもしれない。
 という気分が譜代藩にさえでき、長州風の一蒲割拠主義とまでゆかないまでも、諸藩がみずからの独立性を強くしはじめたことはたしかであった。天下の気分は一変した。

■長州の藩民族主義、民衆が主役が勝利に結びつく

<本文から>
  次いで、長州毛利家が、この時代のことばでいう「鉢植大名」ではなかったこと。つまり、江戸幕府は開創いらい、さかんに大名の国替えをおこなってきた。鉢(土地・人民)をそのままにして大名だけを植え替えるのだが、その理由のひとつは、大名と人民のむすびつきが濃厚になるのをおそれたということがあるであろう。
 たとえは蔵六が直接担当した石州浜田城というのは、江戸期いっぱいで二度城主の家が替わっており、高杉普作が担当した豊前小倉城も二度かわっている。
 それにひきかえ、長州毛利家は他生の大名であり、その藩士団と百姓団とのあいだには同血意識があり、攘夷という民族主義がそのまま圧縮されて藩民族主義になり、その意識のもとに民衆が藩防衛に大挙参加したこと。
「藩民族主義」
といえば、三百諸候のなかでこれが成立する条件をもっているのは長州藩しかなかった。民衆が参加した、と述べたが、むしろ防衛の主力は民衆軍であり、正規軍ある武士団は戦闘力においても政治意識においてももろかったほどであった。
 らなみに、この藩民族主義は、おなじ地生の雄藩である仙台藩伊達家や、薩摩藩島津家でも成立しがたかったであろう。伊達氏や島津氏というのは、武士階級をして百姓階級を極度に差別せしめることによって武士団に誇りをもたせ、その戦国風の精強を保持しょうとしたところがあり、その面においては十分成功した。しかし別な面においては自然門閥主義が強くなったため、とくに仙台藩伊達家などは藩全体の行動や思考に弾力性がまったくなくなり、時勢のなかで硬直してしまった。
 長州藩が勝った理由のひとつは、軍資金がふんだんにあったことであろう。これはこの藩が早くから産業主義をとった成果であり、そのなかでも下関を中心とするいわゆる北前船貿易(日本海コース)によって現金収入が大きく、それが新式兵器を大量に手い入れる力を作った。
 さらに藩政を担当する連中はすべて藩の能力主義方針でその位置についた者ばかりであり、このための藩の政治判断や行動が的確で、高度の政治的運動能力をもちえたこと。
 さらにそれらの理由を踏まえた上でのいま一つの則山は、村田蔵六という、この当時日本随一の軍事的天才を作戦の最高立案者にしたことが、長州の勝利を決定的にした。大村益次郎という名は、この時期、京や江戸にまできこえた。

■長州は革命戦の思想であり、侵略構想はない

<本文から>
 幕末の長州の軍事思想には、侵略の構想はなかった。あくまでも革命戦だけであり、この点、ふしぎなほどである。維新成立後、西郷を中心に征韓論がおこるのだが、その集団のなかには長州人は参加していない。
 いずれにしても、長州藩は、幕末において三大戦争をやってのけた。元治元年の蛤御門ノ変、馬関戦争、それに幕長戦である。この三つで藩が疲弊しなかったのは、この藩の多年の殖産と内国貿易による富力のおかげだが、それにしても戦争の主体としては世界最小の「国」ともいうべき長州藩にすれば、へとへとになるほどに戦争をしつくしてしまっていた。この藩が、山田顕義の進退の例でもわかるように国内革命以外に戦争を考えていなかったのもむりはないであろう。

■大村の卓越した計画性、彰義隊討伐計画で江戸の火災を調べていた

<本文から>
 蔵六が、かれの同時代人から卓抜していたのは、その計画性にあった。
 信じられぬほどのことだが、かれは彰義隊討伐計画をたてるにあたって、江戸の大火の歴史をしらべ、
 −どういう条件で大火になるか。
 ということを多くの事例からひきだし、それをふせぐ方法を考えたことである。
 蔵六は、毎夜、畳の上に江戸絵図をひろげ、紙燭かかけてそれをながめ、風むきがどうならばどこが焼けるかということをしらべたり、避難民の安全避難場所を予定したりした。
 かれが、江戸の過去の大火についての歴史をしらべたことについてのメモが、昭和十年代に発見されている。

■木戸の評価、大村がいないと維新は成立しなかった

<本文から>
 蔵六を好きでたまらなかった木戸孝允が、晩年、
「維新はきちゅう(嘉永六年)いらい、無数の有志の屍のうえに出来上がった。しかしながら最後に出てきた一人の大村がもし出なかったとすれは、おそらく成就はむずかしかったにらがいない」
といったが、しかしその蔵六評には蔵六の智謀だけでなく、かれが自分で出してゆく数学的な正解をみずからが頑固にまもってゆくというその稀有の性格もふくまれていた。しかしこういう蔵六のゆき方は、みずからの生命が慢性的危晩にさらされていることを覚悟することなしには成立しなかった。
 蔵六の軍事的独裁権を成立きせたいまひとつの要素は、西郷であった。
 西郷というこの革命の象徴的人物でありかつ薩摩閥の巨魁が、
「大村サンの節度に従うべし」
と、薩摩の豪傑連中につねづね申しきかせていたため、薩人たらは蔵六の威命を山のごとくに感じ、服従した。

■大村は薩摩の反乱を予感していた

<本文から>
その奇妙さのなかでもっとも奇妙におもわれるのは、明治元年と同二年の段階におい
て薩摩人でさえ気づかなかった薩摩の反乱をくっきりと予感していたことであった。
 かれは志士あがりではなかったから、幕末当時の西郷との接触はまったくなく、西郷が「官軍」の軍服を着けてあらわれてからこの人物を知った。
 西郷は同時代のひとびとをすべて魅了した一大思想家人格といっていいが、村田蔵六にかぎっては西郷の電磁力には不導体であった。
(この男はむほん人にちがいない)
 と、蔵六は一見して思いこんだ形跡があり、それがひるがえって考えると蔵六の歴史的役割でもあった。蔵六は西郷が経た幕末とははとんど無縁で、維新期に突如出現した。蔵六がなすべきことは、幕末に貯蔵された革命のエネルギーを、軍事的手段でもっと全日本に普及するしごとであり、もし維新というものが正義であるとすれば(蔵六はそうおもっていた)津々浦々の枯木にその花を咲かせてまわる役目であった。
 中国では花咲爺のことを花神という。蔵六は花神のしごとを背負った。
 花神の立場からいえば、花神の力をもってさえなお花を咲かせたがらない山があることが、直感としてわかる。
 それが薩摩である、とこの男はおもったのである。

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