司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          花神・中

■攘夷エレルギーが明治維新を成立させた

<本文から>
 ここで、
「攘夷」
 というものの歴史的評価について、ほんのすこし考えてみたい。
 一種の国際知識や感覚の欠陥状態からうまれる排外思想、と定義してしまえばそれではフタもなくなるが、エネルギーとして評価すれば、人間が社会を組んでいる場合、集団としてこれほどのエネルギーをおこす精神ははかに類がない。
 たとえば時のみかどである孝明帝は、外国についての知識は皆無であった。それどころか、天皇というものの歴代のしきたりとして御所の塀のそとに出ることがなく、京都郊外さえ見たことがなかった。もっとも孝明帝は文久三年に賀茂行幸などをして、わずかに市中の風景に接した経験はもっていたが。−
 さらに孝明帝は、これは信じがたいほどのことだが、鎖国主義は神話時代からの日本の粗法であると信じておられた。徳川初期、徳川家が自家の体制をまもるために外国との交際を断ったという歴然たる敵視的事実を、ご存じなかった。
 これはこの帝の教養の問題ではなく、全国津々浦々に五月蠅のようにわきおこった攘夷志士の九割九分までが、鎖国が徳川幕府によって出発したことを知らず、神代以来のものであると信じていた。
 その理由のすペては、この時代、日本歴史についての全時代史(通史)がなく、ただひとつ、頼山陽の『日本外史』があっただけというものであった。その頼家のに蔵されて世に出ず、天保年間にはじめて印刷され、列強の極東侵略のうわさが高くなった嘉永初年ごろから大いに流行するようになった。江戸期というのは世界史に類のすくない教養時代というべきだが、その教養のうらの史学面というのは中国の史書を読むことであって、日本史の研究ではなかった。要するに幕末人は、上は大知識人から下は「浮浪」といわれた攘夷志士にいたるまで、『日本外史』一つが日本歴史を知る上での唯一の書であった。このため、幕末のぎりぎりになってから、相当な志士のあいだで、
「鎖国というのは、じつは徳川家がつくった制度だそうな」
 ということが、きわめて新鮮なトピックスとしてささやかれはじめたほどである。孝明帝が、
 −この神州の土を夷どもに踏ませては皇祖皇宗に申しわけが立たぬ。
 と強烈な宗教的感情をもっておもわれたのも、無理のない滑稽さであった。
 本来、島国で閉鎖的に暮らしている単一民族にとって攘夷感情というのは、ごく自然な土俗感情であるが、この土俗感情が付加されたのは、
「京の天子でさえ」
 という風説であった。すでに朱子学、水戸学、国学といったものの普及で、尊皇というのはごく普遍的な思想になり、理論化されており、それが沸騰する攘夷の土俗感情に行動性をあたえ、さらに集団化させ、物質力にさせて、ついには幕府をゆさぶるにいたったのである。攘夷というこの固陋な感情や理論が革命の力になったのは、そういうことであった。
「攘夷」
 についての余談をつづけたい。
 福沢諭吉のような開明派からみればおよそ愚劣な、
 −私は首をもがれても攘夷のお供はできませぬ。
 と福沢がそうまでののしったその攘夷主義とそのエネルギーが明治維新を成立させたのである。福沢のような開明主義では明治維新は成立しなかった。攘夷エネルギーで成立した明治維新が、世界史上類のない文明開化方針をとったのは皮肉なようにそえるが、雁史はこの点、化学変化のふしぎさに似ている。福沢のような開明主義では、本来国家を一変させるエネルギーをもっていないのである。
 ついでながら、左幕開明主義というグループが存在したが、これではとても歴史、は動かない。というのは、この時代、むしろ幕府方のはうに開明家が多かった。松本良順のような洋医もおれば榎本武揚のような洋式陸海軍の指導者もいる。さらには、小栗上野介のような開明政治家もいて、かれは徳川家を保存する方法として徳川将軍家をナポレオン三世のような地位にし、大名を廃止して郡県制度を布くという青写真をもっていた。
「とすれば」
 という議論がある。
「薩長による明治維新がなくても、幕府中心で結構、開明国家になったはずである」
 という議論だが、これでゆけば、清帝国のままで孫文の中華民国もできたし、さらに毛沢東の中国もできたという議論にひとしい。清朝末期にも洋式海軍があったし、開明的な政治家や思想家もいた。しかしながらそれらの開明主義というのは、国家と社会を一新させるエネルギーにはならないのである。
 幕末の攘夷熱は、それが思想として固唾なものであっても、しかしながら旧秩序をやきつくしてしまうための大ネルギーは、この攘夷熱をのぞいては存在しなかった。福沢は蔵六や長州人の「攘夷熱」を嗤ったが、しかし、これがもし当時の日本に存在しなかったならば武家階級の消滅はきわめて困難で、明治開明社会もできあがらず、従って福沢の慶応義塾も、あのような形にはあらわれ出来成ったことになる。
 さらに反幕攘夷家たちは、日本の中心を天皇という、単に神聖なだけの無権力の存在に置こうとした。天皇を中心におきたいというこの一大幻想によってのみ幕藩体制を一瞬に否定し去る論理が成立しえたし、それによってさらには一君万民という四民平等の思想も、エネルギーとして成立することができた。
「攘夷」
 というものが、福沢のいうようなばかばかしいものではなく、攘夷が思想というよりエネルギーであればこそ、この時期以後激動期の歴史の上でのさまざまな魔法を生んでゆくのである。

■桂が大村の才能を見抜き保護した

<本文から>
  村田蔵六については、一回のテストで政治的才能なしと桂は見て、その仕事から後退させた。しかしながら桂のおもしろさは、政治と軍事とはべつの才能であるということを知っていたことであり、政治の失格者である蔵六を依然として軍事の専従者であらせつづけた。対幕戦の準備と戦争指導はすべて村田蔵六に専念せしめるというこのふしぎな人事的信念を桂が変えなかったことは、桂という人物がどういう人物であったかを、この一事で察することができるであろう。蔵六の天分を、桂は一回のテストもなしで見抜き、信任しつづけ、その地位保全のために政治的保護を加えつづけたのである。

■大村は味方を殺さぬ戦をした

<本文から>
 さらには蔵六は、味方をできるだけ殺さぬようにしていくさをした。たとえば益田攻撃のとき敵の一部隊が逃けて高地に拠った。長州軍もそのあとを迫って高地にのばろうとしたが、戚六は、
 −追うな、退け。
 と、命じ、ひきさがらせた。ひとびとは蔵六の勇気の無さをあざけったが、その日、蔵六が市街地の敵を掃討したことで、高地の敵は孤軍になり、逃げてしまうという結果が出た。一同、蔵六の考え方が、兵を無用に傷つけることなく勝つというところにあることがわかり、蔵六の命令どおりに進退してさえいればかならず臓ち、かつ無用の死をとげずにすむということを知った。蔵六の命令が、雲間にはためく雷電のように十年の心にひびくようになったのは、このころかららしい。

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