司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          花神・上

■革命期には思想家、戦略家の次に技術者が登場する

<本文から>
  さて余談ながら、この小説は大変革期というか、革命期というか、そういう時期に登場する「技術」とはどういう意味があるかということが、主題のようなものである。大革命というものは、まず最初に思想家があらわれて非業の死をとげる。日本では吉川松陰のようなものであろう。ついで戦略家の時代に入る。日本では高杉普作、西郷隆盛のような存在でこれまた天寿をまっとうしない。三番目に登場するのが、技術者である。この技術というのは科学技術であってもいいし、法制技術、あるいは蔵六が後年担当したような軍事技術であってもいい。
 ただし伊藤雋吉が蔵六の塾にいるこの時代は、まだ革命情勢の未熟期にあり、松陰のような存在が生命の危険を賭して思想を叫喚しているときで、戦略家の時代でさえない。まして技術者の時代がきていない。が、技術がそろそろ時代の招び出しをうけようとしていた。 

■村田蔵六は長州の故郷が好きだから幕臣にならなかった

<本文から>
 蔵六がもしこのとき、幕臣になることをきめていれば、右の大鳥や高松に似たコースをあゆんだかもしれない。
 が、蔵六はそれをえらばなかった。蔵六は一見、時代の流れのなかに身を浮かせて流れているだけの人物であるようだが、しかし一面、異常なほどにそうではなかった。そのまま流されてしまえばかれは幕臣になっていたであろう。
 かれはこの時期、その強烈とさえいえる意志力をもって、自分の運命をきめるカードをえらばうとした。
(中略)
 蔵六が幕臣になることをことわろうと心に決めている理由の唯一のものは、かれは長州藩士になりたいからであった。
 なぜなりたいといえば、かれの性格的なナショナリズムにもとめるしかないであろう。
「故郷が好き」
 というそのこと以外にない。故郷がなぜ好きなのかといえば、鶏と卵のあとさきの話とおなじように「性格がそうだから」としかいいようがない。

■村田蔵六は経理能力に長けていたが妻の浪費は認めた

<本文から>
蔵六が鋳銭司村に帰省中、妻のお琴について以外な面を知った。
(中略)
 蔵六から送金があると、必要な経費ぶんをのこし、あとは困窮者を援助したり、村びとたらにふるまったりすることにつかった。
(お琴はどうも意外な面がある)
 と、成六はそのことがおもしろく、お琴に新鮮さを感じた。
 そのくせ蔵六は、藩などの大きな経理にもあかるく(その能力をついにかれは渉外発揮しなかったが)、また自分一個の収支もじつに堅実で、つねに金銭出納帳をつけ、一文の銭もむだにつかわなかった。かれの経理能力がいかにすぐれているかといえば、のちに戊辰戦争をかれが指導してゆくとき、つねに戦中経済を考え、たとえば上野の彰義隊攻めにいくらかかろかということまではじき出し、いくらほどで敵の戦闘力をうばってしまうかということまで概算した。
 そのような、いわば越後屋の番頭のような能力のこの人物が、たれが見ても無意味とおもわれるお琴の浪費について、それを叱らぬばかりか、ひそかにそのことに妻のあたらしい魅力を発見した気になったというのは、測りがたい矛盾である。矛盾こそ人間のおもしろさかもしれない。

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