司馬遼太郎著書
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          上方武士道

■高野則近は公家の密偵として江戸へ向かう

<本文から>
 「気味のわるい男だな」
「くわしくはおいおい話すが、とにかく日を選んで江戸へ発ってもらいたい」
「江戸へ?」
「それも右近衛少将高野則近としてではなく、無冠の布衣としてだ。まず、身分をかくしてもらわねばならないし、さらには、たとえ道中で命を落すことがあっても、名もなき庶人として死んでもらうことになるだろう」
「あまりいい役回りではないなあ」
「朝権回復のためには、かわいそうだが、公家の一人や二人は死んでもらわねばなるまい。ただこまるのは、尊融法親王が江戸へ公家密偵使をつかわすということが、幕府に洩れているらしいことだ」
「らしいどころではない。そのために、数度にわたって私の命が消えかけている」
「幕府は、この公家密偵使を、企ての内容がわからないままに必要以上に恐怖しているようだ。これからも、あなたのくだる東海道は、剣光のふすまが立ちならぶことになるだろうが、そのためには、青不動を従者につれて行ってもらいたい」
「ごめん、お話し中ながら」
声がして、門兵衛が屏風のかげから這いでてきて、
「百済ノ門兵衛、じつは渡辺門兵衛源等、嵯峨天皇二十七代の末裔でござる。代々摂津郷土として大坂に住み、いまは才覚を商うて世をすごすもの、このたびはわが取引き先の小西屋総右衛門ともうす道修町の薬商人から頼まれ、少将則近公とともに地獄のはてまでも同道つかまつる。はて、ひつれいながら、路用の」
「なにかな」
「金は、小西屋総右衛門名代この百済ノ門兵衛が引きうけ申したぞ」  
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■天皇の命で江戸へ

<本文から>
 「おかみ」
 尊融法親王が、野太い声でいった。
「少将のそのつるぎを、このたびの企てに役立てとうございます」
「少将」
 声の主がいった。
「公家密偵使のこと、栗田宮から、くわしゅう聴いたか」
「はい」
「父の愛近のごとく曲鞠にでも興じて生涯を送ればよいものを、つるぎなどを習うゆえ、かような役があたる。一命はおそらく全うできまい。よいのか」
「…」
 御簾から洩れる声が、やさしくふるえをおびていた。
「あわれじゃな。いまでも遅うはない。思案を改めてもかまうまいぞ」
「おかみ、お気弱な」
 法親王が、横からロを出した。
「朝権を奪い奉った武家をこの世から一掃し天子のもと万民平等の世をつくるためには、藩屏たるべき公家の若者の一人や二人が野に果てるのもやむをえないことでございまするぞ」
「宮は、僧侶のくせに気がつよすぎる」
「いや」
 少将は、顔をあげていった。
「父の愛近が曲鞠に興じつつ生涯を終えましたように、この則近も、つるぎの曲芸に興じつつ生涯を終えとう存じます。お心配りなされまするな」
 「おお」
 声の主は微笑んで、
「少将もずいぶんと気の強い。息災で帰ってくる日を待っていますぞ」
 その夜のうち、右近衛少将高野則近は、百済ノ門兵衛と名張ノ青不動を従えて京の立ちから消えた。
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■最後に高野則近はお悠と消えた

<本文から>
「うむ、役目ではそうだ。しかし、高野則近は法親王の所有物ではない」
「では、たれの−」
「わからぬか。− そこにいる」
「あ、お悠どの」
たれかが、思わずつぶやいた。
「そうさ」
 少将が笑った。
一座の視線が、一せいに風炉の前のお悠に集まった。お悠は、顔を伏せた。それが羞恥のしぐさだと思ったのが、この一座の大きな不覚というべきだった。お悠の袂がひそひそと動いていた。みんなが、あっと、叫んだときは、お悠は茶釜を炉の中にたたきこんでいた。
 湯気と灰が、部屋に満ちた。
 燭台の灯が消えた。
 益満も、門兵衛も、青不動も、一せいに立ちあがった。
「灯を」
 益満が、伊集院たちに怒鳴った。騒ぐだけで、容易に灯がつかなかった。
 部星がふたたび明るくなったとき、そこには、少将もお悠もいなかった。
 益満は、腕を組んだまま茫然としていたが、やがて自分をとりもどしたらしく、
「これでよか」
 と、乾いた声で笑った。お悠さえおれば薩摩屋敷に来ると思ったのだろう。笑いは、門兵衛にも伝染した。このほうの笑いは、湿った神楽笛の音のようにひねくれていた。
「まあええやろ。お悠が、いずれ仙女円本舗に連れもどしてくれるわい」
 とつぶやき、
「江戸までは七里か」
 おそらく少将とお悠はあすの夕方までには江戸に着くだろう、と百済ノ門兵衛はおもった。
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