司馬遼太郎著書
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          殉死

■乃木希典は土地にくわしいとの推測で旅順の任についた

<本文から>
  なにぷん、在来の作戦計画には旅順要塞の攻撃という要素が入っていないため、参謀たちのこの点の知識は白紙に近く、その要塞内容に関する諜報も入っていない。それに秘密主義の徹底したロシア軍は旅順については厳重に緘口してきており、外国武官もそれについての知識がなく、日本の在欧駐在武官をしてそれを間接的に聞きこませるという手もなかった。
 それに日本陸軍は近代要塞を攻撃したという経験がなく、知識にもとぼしい。その知識は、在来不要であった。ロシアが南満州を占領するまでは、日本は支却を仮想敵国として作戦計画をたてておればそれで済んだからである。事実、日活戦争のときには、日本陸軍は旅順の存在には触れた。この港は清帝国の北洋艦隊の根拠地であり、その港の周囲には清国は清国なりに多少の支那式砲台を築いていた。この要塞ともいいがたい防衛陣地を、当時の第一師団は一日で陥してしまっている。そのときの土佐藩出身山地元治中将指揮下の旅団長が、少将時代の乃木希典であった。
 「乃木は旅順を知っている。乃木がよかろう」
 という人選の発想はそういうところにある。乃木中将は旅順という土地の案内にくわしい、ということであり、この近代戦のなかで最も困難な課目とされている要塞攻略の権威であるということではない。このような評価で人選されたことも、乃木にとって不幸であった。
 現実の旅順要塞は築城を長技とするロシア陸軍が八年の歳月とセメント二十万棒をつかってつくりあげた永久要塞で、すべてベトン(コンクリート)をもって練り固め、地下に無数の客室をもち、砲台、弾薬庫、兵営すべて地下にうずめ、それら室と室とを地下道をもって連結している。たとえ野戦砲兵をもってこれを砲撃しても山の土砂をむなしく吹きあげるのみですこしの効果もない。
 これについて参謀本部はどの程度知っていたか、いまとなってはわからない。
 すこしも知らなかったということが定説になっているが、そうであろうか。日清戦争後、日本の参謀本部の仮想敵国はロシアになっており、ロシア研究については貧困であったとは思えない。たとえ旅順関係の情報を一片も持っていなくても、ロシア陸軍の規模、予算、思考癖、行動僻というのは十分わかっているであろう。ロシアの極東における帝国主義が旅順港をもっとも重視していることも明白であり、彼がこの旅順を得てから八年になるのである。右の基礎条件から考え、旅順がいまどういう現状になっているかということぐらいは、想像力さえあれば素人でも想像できるであろう。その程度の想像力も参謀本部になかったということは、どうにも考えられない。
 が、現実の参謀本部にあっては、開戦早々のころ、田中義一、大庭二郎などの少佐参謀他がこの問題について意見書を出したとき、
「旅順の兵備はなお薄弱である」
 という文章を書いており、この点からみると、かれらは事実無智なようでもある。
▲UP

■乃木の最初の不運は旅順軽視論者を参謀長と副参謀長にしたこと

<本文から>
 伊地知は参謀本部の第一部長であったりして、対露作戦計画の事実上の担当者の一人であった。これほどの重職者を、大本営がみずからの不便を忍んで乃木のもとにつけたというのは、好意といえば好意であり、
−伊地知なら大丈夫。
 という大本営の安堵もそこから出たのであろう。しかし伊地知がそれほどの謀将であるのかどうか、よくわからない。
 旅順要塞の攻略を海軍が要請した、ということは、さきに述べた。この大本営会議で海軍側が、
 「海軍重砲隊を協力せしめましょう」
 と、提議した。海軍砲は口径も大きく、その貫徹能力も大きいため、当然陸軍としてはこの申し出を受けるのが得策であろう。これについては砲兵科の出身であり、かつて参謀本部の第一部長でもあった伊地知幸介が答えねばならない。
 「その必要もなかろう」
 と、伊地知は−かれだけでなく、参謀本部の課長たちも−はねつけている。海軍の応援をうけたということでは陸軍の沽券にもかかわる。それに旅順要塞は「日活戦争のときであの程度であったが、いまは当時と多少違うにしても陸軍の手だけで十分である」といった。伊地知はその参謀副長として自分の参謀本部時代の旧部下であった大庭二郎中佐をひきぬいて同行することにしたが、この大庭は少佐参謀のころに「旅順の敵配備は手薄である」という旨の説をたてた人物であり、これはさきに述べた。
 要するに乃木の最初の不運は、名だたる旅順軽視論者をその参謀長と副参謀長にしたことであろう。
 ちなみに、日本陸軍の慣習は、司令官の能力を棚上げにするところにある。作戦のほとんどは参謀長が立案し、推進してゆき、司令官は統制の象徴であるという役割のほか、作戦の最終責任をとる存在であるにすぎない。
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■国内線の慣習である降伏の勧告したことがロシアの士気と団結を高めた

<本文から>
  参謀長伊地知幸介は、この総攻撃開始までのあいだに、いまひとつ劇的な手を打った。敵の旅順要塞司令官アナトーリィ・ミハイーロウィッチ・ステッセルに対し、戦わざる前に降伏を勧告したことであった。この突如の勧告に、ステッセルはおどろいたことであろう。
 由来、日本人の慣例として −おもに戦国時代の− 敵城の包囲を完了したとき、なんらかの方法で降伏を勧告する。日本戦史は単一民族のあいだにおこなわれた国内戦であり、それだけに敵味方とも何等かの縁故で結ばれていることが多く、降伏勧告もその点で無意味ではなかった。第一、城(要塞)とは防衛上の殺人機関であり、これに正面から攻めかかるのは人命を必要以上に損耗するため、できるだけ外交と謀略をもっておとすほうがいい。その意味で伝承されつづけてきた国内戦の城攻め慣習 −非戦降伏の勧告− を、他国家の、異教徒の要塞に用いるというのはどういうことであろう。西洋の場合は敵が傷つき、ついに戦力の大半をつかいはたしたとき、とどめを刺す以前に降伏を勧告するのが通例であり、ステッセルもロシア人である以上、その常識しか知らない。
 第三軍司令部から派遣された降伏勧告使は陸軍砲兵少佐山岡熊治であった。しかしながらステッセルはこれをきびしくはねつけた。だけでなく、この勧降は旅順要塞における四万四千のロシア将兵の戦意を沸騰させ、逆にかれらの士気と団結を高めしめる結果になった。
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■全権が児玉に移ることで旅順攻撃が一変する

<本文から>
 その夜、児玉と乃木とは、右の穴のなかにもぐりこんで語り合った。広さは畳二帖ほどしかなく、そこにアンベラと毛布を敷きつめ、小さな机を置き、頭上からカンテラを垂らした。この装置に児玉は満足し、「これでやっと水入らずだ」と、乃木にいった。乃木の生涯と日本の運命にとってもっとも重要な、もっとも言いづらいことを児玉はこの装置のなかでいわねばならない。
−このおれに、第三軍指揮の全権をまかせよ。
ということであった。もし乃木がことわるならば、児玉は大山巌の密書をとりだし即座に乃木を馘首して自分が第三軍の司令官代理にならねばならなかった。児玉はその癖で栗鼠のように小首をかしげ、何度も乃木の顔をのぞきみつつ、
 「どうだろう」
といったであろう。その情景は推測するほかなく、ついに両人とも墓場へゆくまでこれについてはロを閉ざした。ただ明白なことは児玉が多くの言葉を費やすまでに乃木が児玉の提案を受け入れたことであった。この瞬間以後、旅順攻略の指揮権は陸軍大将男爵児玉源太郎に移り、乃木はそのおもてむきの表徴となり、伊地知参謀長以下はその作戦機能を停止させられたことになる。
 この児玉と乃木の穴居会談はよほど内外記者団を刺激し、かれらは早暁から起きてこの穴のまわりにあつまり、児玉と乃木が起きてくるのを待った。
やがて児玉が小動物のように這いだしてきて穴の前に立ち、いかにも愉快げに嘲笑し、「なんの、重要な話なんぞは出なかった。昔語りをしていたのさ」と笑いながら帽子を頭にのせた。しかし記者団はそれだけではおさまらず、さらに質問すると、
 「乃木の寝屁は格別の臭味じゃったよ。わが輩の苦戦は二〇三高地にまさるものがあったな」
 と、頭を激しくふりながら笑ったため、記者団はそれ以上に追求しなかった。が、旅順攻略の様相はこの児玉が穴から遣い出てきたとき以来一変したといっていいであろう。
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■児玉の指揮でロシアは旅順艦隊を五日間で失った

<本文から>
 とにかく児玉の指揮に入って以来、一昼夜の歩兵戦闘のあげく、ついにこの山を奪った。児玉はすぐ有線電話をもって山頂の将校をよびだし、
 「旅順港は見おろせるか」
 ときいた。その返答ほど児玉にとって感動的なものはなかったであろう。「見おろせます」と、その受話器が叫んだ。「すべての軍艦が見おろせます、みな錨をおろして動く気色もありません」と、ひきつづき叫んだ。児玉は送受話器をおろし、かたわらの田中国重少佐と海軍の連絡将校を等分に見つつ、「すぐ観測隊をして山頂へ進出せしめるように」と命じた。これが児玉のこの旅順攻囲軍における最後の命令になった。
 山頂占領後一時間経ってから山頂観測隊が活動しはじめ、礪盤溝から射ち出す二十八珊榴弾砲の射撃を誘導しはじめた。ほとんど二階から石臼をおとすほどの容易さでその射撃は進行し、港内の戦艦ポルターワ、レトウィザン、ベレスウエートなどの諸艦はつぎつぎに撃沈され、その総計約十万トンの各種軍艦のうち戦艦セ・ハストポールだけはわずかに港外へのがれたが、包囲中の東郷艦隊の水雷攻撃のために撃沈され、ロシア側はその旅順艦隊のことごとくを五日間のうちにうしなった。東郷艦隊はこれに安堵し、やがて到来するであろうバルチック艦隊への迎撃準備のために燕順港外の包囲戦務から解放され、全艦を補修すべく佐世保へ去った。
 ロシア側の旅順要塞司令官ステッセルにとっても、この結末は、その戦務からの解放を意味したであろう。なぜならば軍港における陸上要塞は港内の艦隊を抱きまもるためにあるのだが、その守る艦隊が港内の海底に沈んだ以上、これ以上の流血防衛はその第一義的な目的をうしなったことになる。それに二〇三高地の喪失以来、旅順の市街地にも日本人の砲弾がたえまなく落下兵員も市民も逃げ場をうしなった。そのあと二十数日を経てステッセルは降伏開城を乃木のもとに申し入れた。
 この時期には児玉はすでにこの第三軍から姿を消していた。かれは二〇三高地陥落後四日目に当地を去り、満州における総参謀長としての本務にもどった。かれがやらねばならないのは、旅順などよりも北方戦線におけるグロバトキンとの決戦であった。
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■乃木日本武士の典型として世界を駆けめぐった

<本文から>
 乃木の名は世界を駆けめぐり、一躍、日本武士の典型としてあらゆる国々に記憶された。もし児玉が乃木の位置にいたならばこれほどの詩的情景の役者たりえなかったであろう。乃木は独逸留学以来、軍事技術よりもむしろ自分をもって軍人美の彫塑をつくりあげるべく、文字どおりわが骨を錬むがような求道の生活をつづけてきた。乃木のその詩的生涯が日本国家へ貢献した最大のものは、水師営における登場であったであろう。かれによって日本人の武士道的映像が、世界に印象された。
 この評判は、あるいはかれとかれの参謀たちを救ったことになるかもしれなかった。大本営内部や満州軍の高級幕僚のあいだでは、この旅順攻囲戦が終結ししだい、乃木とその幕僚は更迭されてしまうだろうという観測が圧倒的であった。が、乃木はその軍人としての最大の恥辱からまぬがれた。それをまぬがれしめた理由のひとつは明治帝の乃木に対する愛情であり、ひとつには陸相寺内、参謀総長山県の長州人としての友情であり、いまひとつはもし乃木を旅順攻略後に罷免するとすれば旅順における日本軍の戦闘が、最後は勝利をおさめたとはいえ、その途上において記録的な敗戦をつづけたということを世界に喧伝する結果になり、外国における起債にひびくことはあきらかであった。このため、乃木と伊地知以下の人事は国際信用のためにもさわることはできなかった。
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■寝ているときでさえ軍用のズボンを脱がない極端な自律生活に入った

<本文から>
 結婚後も、希典は毎夜泥酔して帰ってきた。三年のあいだに勝典と保典がうまれたが、このことはおさまらなかった。姑はその罪を静子にあるとし、はげしくあたった。このため静子は心労し、一時期、希典の諒解のもとに両児をつれて本郷湯島に別居をした。静子が二十九歳のとき希典は欧州差遣を命ぜられ、彼女が三十歳のとき希典は帰朝した。この帰朝後、乃木希典は豹変し、別な男になった。このことについては前稿でのべた。希典は茶屋酒をやめただけでなく、帰宅後非軍人的な和服に着かえることもやめた。独逸軍人がそうであるように寝るまで軍衣軍袴をぬがず、寝てからも軍用の補絆、袴下をぬがず、さらにこの習性が昂じてくるとかれは寝ているときでさえ軍用のズボンである軍袴をうがっていた。かれはそれを自分だけの規律でなく陸軍の全将校の規律たらしめるよう陸軍省に上申したが、かれが考えている軍人の様式美についての意識は狭く強烈でありすぎ、宗教的ですらあったため陸軍部内で理解されず、不幸にも黙殺された。それ以後、かれはその規律を自分だけの閉鎖されたなかだけに通用するものとし、副官にすらすすめなかった。かれの相貌がどこか行者のそれに似はじめてきたのも、かれが極端な自律生活に入ったこの前後からであったかもしれない。
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■希典は明治帝にとって誠実の提供者

<本文から>
 この皇孫ほど明治帝の期待の大きかったひとはないであろう。帝はこの皇孫が初等科に入学するにあたって、乃木希典をして学習院院長たらしめようとした。希典をして、かつての帝における山岡鉄舟、元田永字たらしめようとされたのであろう。希典も帝の期待に応えようとした。かれは他の児童、生徒に対しては院長という立場で臨んだが、この皇孫に対してだけはひとりの老いた郎党という姿勢をとった。自然、皇孫は他の者のように希典を恐れず、恐れる必要もなく、無心にかれに親しみ、親しんだればこそ、学校における他の者とはちがい、希典の美質を幼童ながらも感じとることができた。希典がこの幼い皇孫に口やかましく教えたのは一にも御質素、二にも御質素ということであ。
 帝は、それら、希典の教育ぶりに満足されているようであった。他のふたりの皇孫についても希典の訓化を要求された。浮宮(秩父官)と光官(耗松官)であったが、この両宮はまだ幼すぎたせいか、希典にはなつかなかった。希典も帝位継承者である皇孫穀下ほどには思いを入れずこの両宮に対してほのかに疎略であった。
 −きょうは乃木は来ないのか。
 と老帝がときどき左右にきかれるほど、希典が宮中に姿をみせることが多くなった。このことは、帝にとって楽しみであったようだが、かといってどれほどの談話があるというわけでもない。
 帝にとってこの忠良な老郎党のたたずまいは、一種の愛嬌とおかしみを帯びていた。愛嬌とおかしみがあればこそ帝にとって郎党なのであろう。山県有朋や伊藤博文、西園寺公望、桂太郎などにはそういうところがなかった。かれらは帝にとって能力の提供者であり、希典は帝にとって誠実の提供者であり、誠実はときとして滑稽感をともなう。
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■夫人・静子に自殺を迫り、すぐに遂げてしまった

<本文から>
 かれは先々月、先帝の死とともに死を決意したあとも静子のことが気がかりであった。二児を非業に喪い、さらに夫を非業に喪うというほどの打撃をこの静子にあたえたくなかったし、その老後の寂蓼をおもうと、むしろ死を選ばせたほうがいいともおもっていた。このことは希典の論理であり、希典の論理はつねにそうであった。この論理が希典において正しい以上、かれはいま一歩を進めることができた。
 「それならばいっそ、いまわしと共に死ねばどうか」
 希典の脳裏にはすでに順が浮かんだ。自分よりもむしろ静子こそさきに死ぬほうがいい。なぜならば静子が女である以上、自害の仕損じがあるかもしれず、その場合は自分がその完結へ介添えしてやることができる。一さらに静子のいうように後日死ぬ、というのはよくない。それこそ自殺を仕ぞこねて恥をのこすかもしれず、さらにひとびとの制止や、ひとびとの監視をうけて思わぬ苦しみをあじわわねばならぬかもしれない。
 が、このことには静子は驚いた。あとわずか十五分で死ねということであった。
 「整理が」
 と静子はいったであろう。
 −家財の整理など、他の者がする。
 と、希典はいったであろう。しかし家財の整理はそうであっても、婦人のことであり、身のまわりにはさまざまなことがある。たとえば家のなかの鍵のかくし場所などもひとびとに言い遺しておかねばならず、身辺のもの物品書類なども焼くべきものは焼かねばならぬであろう。さらにたとえば辞世の歌などもそうであり、いまから十五分のあいだにそれをつくれといわれても作れるものではない。しかしこの辞世の歌については、結局は静子はみごとなものを遺した。「いでまして帰ります日のなしと聞く 今日のみゆきにあふぞ悲しき」というものであった。いかにも希典の調べの帝に似ている。希典がいくつかの辞世の草稿をもっていたとすれば、それを静子のために譲ったかとおもわれるが、しかしあるいはそうでなく、静子が即座につくったかもしれなかった。それがいずれであるにせよ、そのことは死のための項末な形式にすぎないであろう。
 ただ、静子は当惑した。当惑のあまり叫んだ声が、階下にまできこえた。
 −今夜だけは。
 という静子のみじかい叫びが階上からふってきて、階下にいた彼女の次姉馬場サタ子らの息を詰めさせた。そのあとすぐ癇の籠った声が二三きこえたが意味はききとれず、すぐ静かになった。
 そのあと数分経過した。階下のひとびとは沈黙をつづけた。階上でふたたび気配がきこえた。重い石を畳の上におとしたような、そういう響きであった。馬場サダ子は、人の死を直感した。サダ子と下婦ひとりが階段をのぼった。鍵穴からサダ子が叫び、希典の名をよび、静子に罪があるなら自分が幾重にも詫びます、と泣きつついった。血のにおいが廊下にまで流れていた。
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