司馬遼太郎著書
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          城塞・下

■冬ノ陣後の大野修理の甘い主観的見通し

<本文から>
  勘兵衛の記憶では、冬ノ陣のはじまる前の修理は、徳川幕府と戦うというこの大ばくちについて、まだ多少は懐疑を残し、ためらいがあったように思う。冬ノ陣で一戦して優勢を保ちつつも和睦する気に彼がなったのは、この最初からあった心の中のためらいが拡大したからであろう。
 ところがいまやためらいもない。
 「国持大名にしてやる」
 と、本気で勘兵衛にいう。
(修理にかぎらず、人間というものはそのようなものであろうか)
 勘兵衡は、自分自身も人間であることを忘れ、修理においてふしぎな生き物を見るように見た。
 考えてみよ。
 と、勘兵衡は思う。
 (冬ノ陣がはじまる前、この古今比類なき名城には、まだ外濠も内濠もあった。さらにはまた、修理がさかんに楽観説をのべていたように、豊臣恩顧の大名たちが大挙救援にくる、という希望的観測があった。その上で冬ノ陣開戦の勝利戦略が構築されたのだが、いまはそのすべてがない。
 ただの裸域があるだけでありながら、修理の心には逆にためらいが消え、信念だけが底光りに光っている)
 おそらく、やや有利かもしれぬという客観状勢にとりまかれているときは、人間の思慮は客観状勢という対象現象に対して計算力が働くのであろう。たとえば冬ノ陣の前、修理は勝利の見通しについてこういうことをいった。
 「島津と毛利はかならず味方する。前田と伊達はあやしいようだが、当方に勝ち旗があがりそうになればどっと御味方になだれ入るであろう。福島はまぎれもなくお味方であり、場合によっては池田や浅野もこちらへ寝返るはずだが、この二つが寝返らずともまずまず算木の勘定はあう」
 勘定すべき客観的な数字というものがあったのだが、いまはそのすべてがない。いっさいの見通しが、修理の主観の世界から出たり入ったりしている。となれば、信念である。大野修理亮治長は信念の人たらざるをえず、信念の人になったがゆえにかれの眼光にかつてない底光が宿るようになった。しかも、たえず上唇がめくれ、目もとが笑みくずれて、もう四十の半ばをすぎているというのに、気味わるいばかりの童故になる。
 「よいかな」
 「心得て侯」
 と、助兵衛はひとまず答えてから、首を垂れ、深く思案する様子をつくった。
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■冬の陣で秀頼は争闘心を呼び覚ます

<本文から>
−修理の申すことならば。
 と、彼女はつねにそう言い、そういう自分の信頼を秀頼に押しつけていたにすぎない。
 が、冬ノ陣の戦闘は、秀頼を一時におとなにした観がある。秀頼は実際に硝煙を嗅ざ、域楼に登って東軍の人馬を見、さらには後藤又兵衛と木村重成によって指揮された鴫野方面の快戦を秀頼はその目でとらえた。この人間どもの血闘の情景が、かれの母方の祖父である浅井長政からひきついでいる血や、大伯父の織田信長や父の豊臣秀吉といったふうな、なみはずれて争闘心のつよい連中からうけついでいる血液を一時によびさましたにちがいない。
 その場所につねに又兵衛がいた。又兵衡が戦闘を目の前で説明しつつ、秀頼に武将としての心得を説いた。
 秀頼が、又兵衛を信頼するにいたった契機は木村重成がつくった。重成は秀頼にとって、
 「博人子」
 という、乳兄弟の関係にある。秀頼にとって家来というよりも弟もしくは朋友という実感をもてる相手というのは、重成しかなかった。重成のほうがすこし齢は上ではあったが、幼少のときは遊び相手としてともにすごし、少年のころは学閥相手として重成のみがつねにそばにいた。秀頼が、執事の大野修理よりも重成のほうにじかな親近感をもちつづけてきたことは自然の情である。その重成が、かれ自身が師匠のように畏敬していた後藤又兵衛を秀頼にちかづけたのである。
 冬ノ陣の戦いとそれを終了させた外交とさらにその後の経過は、秀頼にとって重大な教材になった。たとえば母親が信じきっていた織田有楽父子の信ずべからざることも知り、どういう者が自分にとって頼りになる男かということも、一時に知るようになった。冬ノ陣の和議についても、牢人諸将が理由をあげて反対したが、その結果、外凄をうずめることなどは牢人諸将が予言したとおりになったのである。それに反し、和議を推進した大野修理の能力が、むざんなほど暴露された。あの和議は秀頼自身は反対し、再三にわたって修理にそれをいった。が、修理は淀殿の支持をえてそれを押しとおし、その結果はさんたんたるものになった。秀頼が、大野修理という人物の資質を興醒めるおもいで見るようになったのは当然といっていい。
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■家康の大坂攻略の二面性

<本文から>
「家康は、ゆうゆうと旅をかさねている。
 この旅は、表むき、単に、
 −京へのぼる。
 というただの旅行にすぎない。しかしながらこの道中そのものが、かれの大構想のなかでもっとも重要な部分を占める政治的演技であった。
 かれの演技の複雑さは、大坂の豊臣家に対しては、
「決して武力をもって攻めつぶそうなどとはおもっていない。ただ京へのぼり、豊臣家の事情を聴取しようとするものである」
 という和平の表情をすこしもくずしていないことであった。そのくせ、一万では江戸の将軍秀忠の名をもって天下の諸侯に大動員令をくだし、大阪城に対する大攻囲陣を着々と構成しつつあるという榔離すべき武の表情をとりつづけている。
家康におけるこの両面性というのは、家康いう人間に固有のものであり、その生涯の政・戦略を特徴づけているものであったが、それがこの時期ほどくっきりあらわれたことはない。
「籠城者の心理というのは、つねに動揺しているものだ」
 というのが、家康が大坂城に対してとっている質法であった。かならず城内に和平派というものがある、と家簾はみる。籠城者個々の心理もそうで、ときに決戦へ傾き、ときに和平へ傾き、たらいの水のように揺れてさだまらない。そういう領域心理に対して、
 −攻撃看である家康は和をのぞんでいる。
 という印箸たえずあたえつづけてゆかねばならない。そうすることによって、と与れば結束しがちなかれらの心をかきみだし、城内に党派をつくらせ、党派がたがいに相手の派を構疑しあうという、家康にとって好もしい状態をつくりあげることになる。
 「大野修理の傷の様子はどうか、見舞ってやれ。わしが案じていると申しったえてくれよ」
 といって使者をやったのも、それであった。そのことはすでに触れた。ただこの使者の人選が妙を得ており、大野治純−修理の次弟−なのである。大野治純は関ケ原のあと東西の外交上の必要から駿府に駐在させられた人物で、いわば人質であった。家康にとって厄介者にすぎないこの治純を大坂へ追いかえすについて、かっこうな口実と利用価値を見出したといえる。
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■家康は北政所と「浅野家」を対峙にした

<本文から>
この北政所と「浅野家」というのが、事実上ひとつのものなのである。
 浅野家は、北政所の実家(厳密には養家)であった。彼女は織田家の下級将校である浅野又左衛門長勝に養われた。長勝の妻が彼女の叔母であり、長勝は彼女を実子以上に愛した。彼女は、長勝の養子の長政と姉弟のようにして育った。
 秀吉が天下をとると、係累のすくない秀吉はその妻の実家である浅野氏をとくに大切にあつかい、浅野長政を重用した。長政はさほど力量のすぐれた人物ではなかったが、戦場では臆せず、平時では、豊臣家の家政をよく援けた。その子幸長も、ともどもに秀吉から重視された。幸長は朝鮮ノ陣で加藤清正とともに蔚山域に籠城して難戦によく堪えたところをみても、実直で勇敢な野戦宣丁司令官であった。
 関ケ原のとき、北政所はこの浅野幸長に、
 −徳川殿にお味方せよ。
 と命じ、その後も家康に協力させた。
 家康も、
 (北政所の心を携るには、幸長を格別のあつかいにすることだ)
 とおもい、関ケ原のあと、紀州一国三十七万六千石という大きな賞をあたえた。それだけでなく、浅野家と徳川家とが濃厚な姻戚関係でむすばれるように、幾重にも縁組したということはすでに触れた。
 家康にとっては、北政所・浅野家というものと濃密な上にも濃密な軸関係をもつということは、
 −自分は豊臣家を決して疎略にはしていない。
 ということを、豊臣恩顧の大名に信じさせ、かつ世間の心を安んずるための唯一の道であった。家康にすれば、淀殿などは故秀吉の側室にすぎないが、従一位北政所こそ故太閤の現世での代理人であり、これを尊重することは道理である、ということになる。
 要するに、浅野家というのはもともと織田家の下級将校の家であり、歴代の誰もが大名になるべく努力したことがないのに幸運にも豊臣大名になり、さらに徳川大名としても、家康の道理が、
 「わしが浅野家を大切にしていることがすなわら故太閤の旧誼をわすれていないことだ」
 ということで世間の批判をなだめようとする政略をとっているため、過保護の状態にあった。史上、このようにゐずから努力することなくついには紀州という大国のぬしになったという家もめずらしいであろう。
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■秀頼の出馬を偽りの和議の申し出でくじいた家康

<本文から>
 −右大臣家をたすけ参らせるべし。大和一国でも差し上ぐべし。
 といっているのである。仁慈というか、忠誠というか、あの駿府翁が悪人にあらざることをいまのいまになって私は知った、上様はそう思われませぬか、かように申しているあいだも、関東の軍勢はひたひたとお域に迫っておりまする、上様、お心をお静かになされて駿府翁の申されることをお聴きあそばされるように、と淀殿がいってから、
 「よろしゅうございますな?」
  と、おっかぶせた。
 そのとき四天干寺付近の薮の中で埋兵部隊の隊長として伏せていた七手組組頭の速水甲斐守守久が、「秀頼の命令」と称する使者−実際は淀殿が発した使いだが−によびもどされて、この小書院に入ってきた。
 速水は事情をきき、おどろいて、
 −それは詐謀でござる。
 と、小さな声でいったが、かたわらにいる常高院に遠慮してそれ以上にはいえない。
 秀頼に置きざりにされてしまった桜川の親衛部隊は、主将未着のまま炎天に曝され、しかも、−和議が入って卸本丸は動揺している。
 といううわさをきき、戦いの前途に絶望してせっかくの戦志を萎えさせてしまった。
 さらに茶臼山本営にあって、秀頼の出馬を再三催促していた幸村は、何度目かの連絡者が駈けもどってきて、「常高院どのがお入りになり、御本丸は和議のご心算」ということをきいたとき、幸村は冬以来の疲れがにわかに出る思いがした。
 さらにつづいて城からの伝令が駈けてきて、
 「しばらく進戦を見合せよ」
 という上意がつたえられたとき、幸村には家康の策謀のすべてがわかった。城方の軍勢が死を決して上町台の南端の四天王寺付近に布陣しているとき、家康にすればこの堅陣をやぶるのには犠牲が必要であった。まず大坂万の気勢を、この「和議」によってくじき、さらには秀頼・淀殿に命を出させて、その庵下の軍勢にいったん進戦を見合わさせることであった。それによって死を決していた戦士たちの心をしてくじけさせてしまう。いったんくじけた心が、ふたたび死を決しなおすということは、戦場の心理としてまずありえない。
 幸村がこのとき嘆じて、
 −古今の悪人とは駿府翁のことかな。
 と、息子の大助にもらしたというのは、のちのちまで語りつがれた。そう嘆じつつもなお幸村上いう男は希望をすてず、息子の大助に対し、
「そなたのここでの備えは、他の者に代らせよう。そなたはすぐ駈けよ、御域へもどれ、どうあっても右大臣家を御説得申しあげ、御馬をこの四天王寺まで曳き参らせよ」
 と、いった。大助は敵を前にして戦場を去ることをのぞまず、再三こばんだが、幸村はきき入れず、人数十騎つけて大助を城のほうへさげた。
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■夏ノ陣の戦死者は明治以前の日本戦史のなかで類を絶している

<本文から>
いわゆる夏ノ陣といわれるこの五月七目の東西決戦ほど激しかった戦いは古今になかった。東軍が得た首級だけで1万四千五百三十余級というから、戦死者の数のおびただしさは、明治以前の日本戦史のなかで類を絶している。大坂万が、この戦いを戦うにあたってすでに生き残ることを絶望していたということを、この数字は雄弁すぎるほどに物語っているであろう。
 勘兵衡が、勘兵衛なりに、
  −夢、醒メタリ。
 と落莫の思いでおもったことは、城兵にあっては置かれた場が場だけに足軽のはしばしにいたるまでの痛突だったにちがいなく、しかも城方の夢はくっきりした形象をもっていた。摂津大坂の湾頭にそびえる一大城塞がそれであり、
「この大城塞があるかぎり、元亀天正の歩はなお見はてることなくつづくにらがいない」
 と、ほとんど信仰のように思っていた。このためにこそ河内平野や、四天王寺台地で死力をふるって大軍と戦いつづけ、しだいに戦況が非になるにつれて余生を断念し、それぞれが狂い死ぬようにして乱軍のなかで闘死した。この死者の数の異常なばかりのぼう大さは、その消息をよくあらわしている。
 が、この城の支配層を梢成していた城内貴族だけはかならずしもそうではない。
「なんとか、生きられまいか」
 と、秀頼でさえそう思ったにちがいなく、淀殿は当然のようにそうおもっていた。本丸が燃えはじめたとき、かれらは火を避けて本丸から走り、山里郭へ逃げたが、この郭において防戦の指揮をするわけでもなく、ここにおいて自殺するというつもりもなかった。
「これへ御座りませ」
 と、案内する侍臣たちにつき従って秀頼も走り、淀穀も走り、やがて、
「いざ、これにて。−」
 と、持臣たらが糒蔵の前に立ち、扉に手をかけ、ぐゎらりとあけたそのかびくさい土蔵のなかへ秀頼も淀殿も吸いこまれるように入ってしまったのである。
 かれらはなお生きるつもりであった。この塗り籠めの土蔵ならば火も来ず、銃弾からも安全であった。この土蔵の内側の桟をおろせば、そとからは開けられない。ここに閉じこもって攻城軍と外交交渉をしてしかるべき算段を講ずるつもりであった。
 「内蔵助(渡辺札)はおるかや」
 と、淀殿は真っ暗ななかでその名をよんだのはどういうつもりだったのかわからない。このせまい土蔵のなかに三十人ばかりの侍臣や侍女がひしめいており、当然内蔵助およびその母である正栄尼もまじっているとおもったのであろう。
 「母子ともにすでに自害つかまつりました」
 と、おそらく速水甲斐守守久あたりがいった。その声を二位局がきいた。
 右の会話は、事件経過にとってなんの意味もない。ただ淀殿は長年の侍女である正栄尼やその子の内蔵助の死をきいてもさほどの衝撃をうけずにこの暗闇で呼吸をつづけていたのにちがいなかった。家臣というのは元来犠牲になることを最高の道徳としている存在であり、淀穀にとってはその犠牲を消費するだけでよかった。彼女は、自分と秀頼を生存きせるために家臣というものは存在しているということを、うまれながらにして享けもって生き、その点では一点ですら疑いをもったことがない。彼女にすればこの場にいたっても、
 「いったいどうするつもりじゃ」
 と、その侍臣を叱るだけでよかった。
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