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<本文から> 七手組の親衛隊でさえ、ただの宮仕えという気分が横溢していた。
「七手組の評定」
というのは、こういう気分のなかでおこなわれている。その七人の親衛隊長といえば、
速水甲斐守守久
青木民部少輔一重
真野豊後守頼包
伊東丹後守長次
堀田図書頭正高
中島式部少輔氏種
野々村伊予守吉安
で、みな官位をもち、それぞれ一万石あまりをもらっていたが、このなかで秀頼のために懸命なところがあったのは速水守久ぐらいのものだったかもしれない。青木一重などはもともと徳川家の家来で、姉川ノ戦いで大功があり、のち秀吉が天下をとったとき、家康の家来の粒のよさをうらやみ、
−せめて所右衛門(青木一重)をわしにくれ。
といって無理やりに移籍させた人物である。当時家康は秀吉に属して豊臣家の大名になったころだったから、
−所右衛門を秀吉のそばに置いておけばなにかと様子がわかって都合がよい。
とおもったに相違なく、その後も青木一重はたえず旧主の家来のもとにあいさつに行ったりしている。いわば最初から間諜であった。しかもかれは冬ノ陣がおわるや、部下をすてて家康のもとに奔り、徳川家の家臣に復している。
伊東長次は家康とは無縁だったが、みずから売りこんで間諜になったのは、すでに関ケ原前夜のころであった。石田三成の挙兵をいちはやく関東の家康へ密告したのはこの男であった。かれは勘兵衛のこの時期も、なお大坂城にあって依然として間諜をつとめていたらしく、大坂ノ陣がおわると、家康に召し出されて幕臣になっている。
真野頼包は父の助宗が病死したため秀頼の代になってこの職を継いだ。このためまだ若いが、早くから藤堂高虎に接近していた。藤堂高虎は関ケ原の前、豊臣家の大名であったが、家康のために間諜活動をし、秀吉の死の直後の豊臣家の内情を諜報しつづけていた人物で、関ケ原のあと、その功により家康から大封をもらった。真野頼包はその藤堂高虎の遊泳ぶりを知ってあるいは羨んでいたのかもしれない。かれはこの大坂ノ陣のはじまる前からしきりに域内の様子を高虎に流していた。これによって、大坂ノ陣がおわってからこの真野頼包は藤堂家の家来になっている。
堀田正高は老齢で歩行もあぶなっかしかったが、関東への顧慮をわすれていない。七手組の七人の隊長のなかでは速水守久のほかにはかろうじて中島氏種と野々村吉安が、家康に通じていない。 |
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