司馬遼太郎著書
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          城塞・中

■親衛隊七手組の五人までは家康の通じていた

<本文から>
七手組の親衛隊でさえ、ただの宮仕えという気分が横溢していた。
 「七手組の評定」
 というのは、こういう気分のなかでおこなわれている。その七人の親衛隊長といえば、
  速水甲斐守守久
  青木民部少輔一重
 真野豊後守頼包
  伊東丹後守長次
  堀田図書頭正高
  中島式部少輔氏種
  野々村伊予守吉安
 で、みな官位をもち、それぞれ一万石あまりをもらっていたが、このなかで秀頼のために懸命なところがあったのは速水守久ぐらいのものだったかもしれない。青木一重などはもともと徳川家の家来で、姉川ノ戦いで大功があり、のち秀吉が天下をとったとき、家康の家来の粒のよさをうらやみ、
 −せめて所右衛門(青木一重)をわしにくれ。
 といって無理やりに移籍させた人物である。当時家康は秀吉に属して豊臣家の大名になったころだったから、
 −所右衛門を秀吉のそばに置いておけばなにかと様子がわかって都合がよい。
 とおもったに相違なく、その後も青木一重はたえず旧主の家来のもとにあいさつに行ったりしている。いわば最初から間諜であった。しかもかれは冬ノ陣がおわるや、部下をすてて家康のもとに奔り、徳川家の家臣に復している。
 伊東長次は家康とは無縁だったが、みずから売りこんで間諜になったのは、すでに関ケ原前夜のころであった。石田三成の挙兵をいちはやく関東の家康へ密告したのはこの男であった。かれは勘兵衛のこの時期も、なお大坂城にあって依然として間諜をつとめていたらしく、大坂ノ陣がおわると、家康に召し出されて幕臣になっている。
 真野頼包は父の助宗が病死したため秀頼の代になってこの職を継いだ。このためまだ若いが、早くから藤堂高虎に接近していた。藤堂高虎は関ケ原の前、豊臣家の大名であったが、家康のために間諜活動をし、秀吉の死の直後の豊臣家の内情を諜報しつづけていた人物で、関ケ原のあと、その功により家康から大封をもらった。真野頼包はその藤堂高虎の遊泳ぶりを知ってあるいは羨んでいたのかもしれない。かれはこの大坂ノ陣のはじまる前からしきりに域内の様子を高虎に流していた。これによって、大坂ノ陣がおわってからこの真野頼包は藤堂家の家来になっている。
 堀田正高は老齢で歩行もあぶなっかしかったが、関東への顧慮をわすれていない。七手組の七人の隊長のなかでは速水守久のほかにはかろうじて中島氏種と野々村吉安が、家康に通じていない。
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■豊臣家を滅ぼした家康はやり方を選ぶべきであった

<本文から>
家康はこのさい、関ケ原以上の規模で、天下の大名をぜんぶ大坂の戦野に集結きせるつもりであった。それは戦略上必要であるというより、右の理由により政略上必要であった。かれの政権が、のちにカトリック信徒を根絶やしにするために踏み絵をやらせたのとおなじやりかたである。キリストの像を踏ませるというテストによって信徒・非信徒を見分けたように、秀頼を殺す手伝いをさせることによって、諸大名をして徳川家への忠誠心を証させようとした。
 このために家康は、まず薩摩の島津家久をはじめ五十人の外様大名に対し、
−徳川の御家に別心これなく侯。
 という誓紙を提出させた。この提出させた日が、なんと大坂城の使者の片桐且元や大蔵拙局が、外交交渉の前途に希望をもちつつ駿府に滞在していた時期である。ということは、家康にとってかれの大坂攻めは戦争ではなかった。本質は犯罪であった。大蔵卿局を甘言で釣って安心させる一万、江戸政府に命じ、諸大名に誓紙をさしださせているということは、政略という範囲をこえてしまっている。戦国期、「武士のうそを武略という」などといわれて、騙すことが政略とされたが、しかしそれは相手が敵国であるばあいに成立した。豊臣家は敵ではなかった。家康にとっても諸大名にとっても、旧主家であった。それをほろぼそうというのも、江戸政権の基礎をかためる上でやむをえないことであるかもしれないが、しかし家康はそのやり方を選ぶべきであった。かれが後世、悪人然とした印象を庶民に植えつけてしまったのは、この時期のやり方が、政略でも戦略でもなく、単なる犯罪計画で、かれ一人がそれを樹て、実行したところにあるであろう。
 さらに家康は、大坂の使者の片桐且元がまだ大坂へ復命していない九月十八日、播磨(兵庫県)の国主池田利隆(輝政の子)が江戸から駿府へあいさつにきたとき、
 「すぐ尼崎まで兵を出せ」
 と、命じた。このころ摂津尼崎城主は建部政長であった。建部と協力して大坂域の変化にそなえよ、と池田利陸に命じたのが、家康の軍令の第一号であった。すでに家康の側では戦いがはじまっていたのである。拍手の大坂の淀殿らは、
  −まさか戦さになるまい。
 と、不安ながら「駿府の老人のご機嫌よし」という大蔵卿局の報告に望みを託しており、その家康がすでに作戦命令の第一号を出してしまっていることを、彼女らは仏たらのような無邪気さで知り及ばなかった。
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■家康はまず秀忠を騙し大坂城を攻略した

<本文から>
秀忠は三十五歳の半生で、この場のときほど気負いこんだことはない。つまりは、家康の思惑どおりになった。家康はこの大坂城攻撃にあたって、秀忠を鬼将軍に仕立て、世間にもそのような印象をあたえようとした。
 秀忠が武断主義をとるのに対し、家康はそれとは別個に、あくまでも豊臣家を救おうという寛仁の態度を持し、講和方針をとってゆこうというのである。打ちわっていえば、掛け合であった。家康が柔軟にゆこうとするのに対し、秀忠がそれに反対して諸大名を駆りたて、武力奪取の方針でゆく。
世間はおそらくどちらが徳川家の顔か、惑うであろう。惑わせることが家康のねらいであった。敵の心に不安と安堵を交錯させることによって城内に流言も発生するし、また調略すべき裂け目もできてくる。その二つの顔をもつには、家康はまず秀忠を騙されねばならなかった。秀忠がもし水準以上の人物なら家康は自分の肝を打らわり、
「つまり狂言」
といってしまうであろう。が、秀忠が実直だけが取り柄の男である以上、家康にすれば秀忠に迫真の演技を演じきせるために、警まるまる騙してかからねばならなかった。秀忠はあくまでも妥協をゆるさぬ鬼将軍なのである。
「わしは、秀頼をなんとか救いたい」
 と、家康はかさねていった。それがうそであることは、かたわらの本多正純には百もわかっていた。家康の目的は、ただひとつ、秀頼を殺すにあった。
 が、殺すための作業としてあの巨城を砕くということをせねばならない。それには歳月が要る。なんとかここで大芝居を打ち、大調略を仕掛けて、秀頼の防壁を薄くしてから殺すという方法をとらねばならない。
 それには、大魔術が必要であろう。
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■真田幸村や後藤又兵衛は「民衆的英堆」というような印象でその姿が伝承

<本文から>
家康の脚本と演出によって、撃役の淀殿までが、女性の性格の表型として大きく照明があてられ、後世のわれわれは、
「あの会社には、淀君がいる」
といったぐあいに、ドン・キホーテやハムレットなどと同様、そういう便利さで使えるようにまでなっている。以上のような世界史的な同時代における相似現象というのは、単に偶然の暗合ということで片づけていいものかどうかという点で、多少、快感を帯びた戸惑いをおぼえる。日本の戦国の騎士時代をこの「大坂ノ陣」という大芝居で家康いう作者は大終熄させてしまうのだが、そういう歴史の筆が痛烈なきしみ音をあげる場合、そして中世的なもののいっさいが去ろうとしている場合、それへ登場する人間たちは、きわめて原色にちかい性格典型を露出させつつ登場し、そして退場せざるをえないのかもしれない。ということは、たとえば大坂城に籠る後藤又兵衛や真田幸村らの撃たちは多分にドン・キホーテ的典型を演ぜざるをえず、であればこそかれら陽気な悲劇的撃たちは後世まで「民衆的英堆」というような印象でその姿が伝承されてゆくのである。秀頼もまた、そうであろう。秀頼は、右のような歴史が煮つまってゆく主題性に追いつめられてゆく結果、ついにはハムレット的典型へ性格描出をみずから演じてゆかざるをえないということが、後世からみるとふしぎなほどである。
 真田幸村や後藤又兵衛にすれば、最初から大坂方が勝てるというような成算はなかった。ただ戦国の空気をもっとも濃厚に吸った者としての最後の自己表現の場をこの城の寵城戦にもとめたにすぎない。ただかれらが、ドン・キホーテと多少ちがっていたことは、あくまでもその行動が理性の所産であることだった。
 自然、
 −勝つかもしれない。
 という計算式を何種類かは組みたてている。そのどの計算式も、基礎になっている要素は、偶然への期待であった。
 「長期籠城がいい。長期領域さえしておればかならず事故がおこる」
 不測の事故のことである。
 なにしろ東軍は四十万という、史上空前の大軍をうごかして、大坂城下の野や丘や池畔や薮地にびっしりと布陣しているのである。大軍には事故がおこりやすい。歴史を旋回するような事故もおこりうる。たとえば家康が陣中で病死するという事故であった。
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■家康は三ノ丸の濠をうずめた勢いで二ノ丸の凄を埋める

<本文から>
家康は、批准が成立した日、
 「よいか、上野」
  と、いった。
 「間を置いてはならぬ。即刻、支度にかかれ、十万人の黒鍬(土方)をあつめよ、仕事はあすの早朝からどっとはじめるのだ」
 しごととは、外濠をうずめるというしごとである。
 「総凌をうずめる」
 ということで、和睦条約は成立している。総凄とは、惣濠とも書く、惣というのは、惣塀、惣囲などという言葉があるように、建造物のもっとも外側の区割をさす。要するに外濠である。
 が、家康は曲げた。この総の意味を、
 「総ての濠」
 とし、すべての凄をうずめ裸域にせよ、とひそかに命じたのである。しかし本丸の凄までは埋めにくいであろう。家康がいうには、それはさておくとして、三ノ丸の濠をうずめた勢いで二ノ丸の凄までうずめてしまえ、ということであった。
 これをこう命じたとき、家康はこの一事によって、かれの七十余年の生涯とその歴史上の存在印象を一変させてしまうほどの悪印象を後世にあたえようとは、思いもしなかった。家康のこの時代、
 −後世は自分をどう思うか。
 などという思想はない。自分の存在と行動を歴史という大きな流れの場において見るという習慣は、この時代にはまるでなかった。家康の配慮のすべては、ただ、
 −大坂をどう騙すか。
 ということに集中していた。
 家康は、この場に、松平忠明、本多忠政、本多康紀の三人もよんである。本多正純を総奉行とし、
 「なんじら三人、奉行をつとめよ」
 と、三人に命じた。家康はこの場に安藤帯刀その他の腹心の家来をよびあつめてあったから、それら重臣のすべてに自分の肝の中を理解させることができた。要するに徳川家はことごとく一つ肝になって、豊臣家をだますことにとりかかったのである。
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