司馬遼太郎著書
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          城塞・上

■家康は関ケ原のあとも世間の様子をみていた

<本文から>
 家康だけが、生きている。
だけでなく、秀吉の遺児秀頼もいる。ただ秀頼は、関ケ原の合戦のあと、家鹿によって天下をとりあげられ、この見はるかす範囲の土地、つまり摂河泉のうちでわずか六十五万七千匹百石という奥州の伊達家程度の大名にまでおとされてしまった。
 「そのことは、江戸殿(家康)の悪謀である」
 ということは、大名どもはいざしらず、京・大坂にすむ町人どもの定評であった。町人どもは、家康を悪党とみた。新興の江戸は日に日にさかえているのにくらべ、京・大坂のにぎわいは、関ケ原以後、とまった。
 「しかしいずれは、江戸殿も、天下を大坂の秀頼御所におゆずりなされるのであろう」
 と、町人どもはみており、その政権の大坂移譲が、京・大坂の繁栄を太閤のむかしにもどすための大きな希望になっていた。
 家康は、世間の様子をうかがっている。
 しかし、一方では徐々に自分の天下を津々浦々にみとめさせようとしている。
「無理なく、ゆるゆると」
 というのが、家康というこのたぐいまれな現実主義者の変らぬ政治方針だった。たとえばかれは関ケ原で大勝を得て事実上の天下人になったのは慶長五年であったが、しかしすぐには征夷大将軍にならず、それになったのは慶長八年である。同時に、江戸幕府をひらいた。これによって家康の天下は公認されたが、
「しかし、失望するにはおよばない」
 といううわさを、京・大坂にながさせた。
「江戸殿はなおも豊臣家を尊んでおられる。それが証拠に、江戸殿は朝廷に奏上して、秀頼御所を関白になさるそうだ」
 将軍は武家の最高位であり、関白は公家の最高位である。世間の常識としてはほば同格であった。
「珍重々々」
 と、京における最大の政界通ともいうべき醍醐三宝院の門跡義演までが、そのうわさを信じ、日記のなかで手ばなしでよろこんでいる。しかし、むろんうそであった。が、家康は世間に失望はさせても絶望させることをおそれた。このとき、ほば同時期に、関白ではないとはいえ、公家の最高位にちかい内大臣を、十歳(満年撃の秀頼のために世話をした。
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■秀頼の異常な人気

<本文から>
 秀頼が二条城を出たとき、京の町は、異常な熱気につつまれた。町じゅうの男女がことごとく路傍にすわり、ひざを詰めあってかれをおがもうとした。
一人の男が京にあって庶民からこれほどの歓迎をうけたのは、遠くは西海から凱旋した源義経
と、このときの豊臣秀頼だけであったかもしれない。
 結局、この人気は、秀吉という陽気な時代の演出者をなつかしむ感情が、秀頼の成人とそのにわかな上洛でばくはつしたものであろうし、逆にいえば、徳川政権の不人気ということにもつながるかもしれなかった。
 秀頼の人気は、清正ですら意外であった。
 かれはよほどうれしくなり、秀頼の乗物をとめさせ、秀頼に、
「上様のご入洛で、京は陽がさしたようでございます。お駕籠の両の戸をおひらきくださいますように」
と、言上した。戸をあけっぱなしにして秀頼の成人した姿を京の貴嬢男女に見せてやろうという配慮であった。清正は単に木強漢というだけでなく、世間を柏手にはなやかさを演出できる能力を多分にもっていた。
 行列は、すすんだ。
 清正と浅野幸長は、秀頼の鴛籠の両わきに青竹の杖をかかえて供をした。
 この日の秀頼の行列がいかに人気があったかといえば、沿道の家の軒下を借りるだけで、家主に銭を出さねばならぬという前代未聞のことがあったことでもわかる。また、かつて織田・豊臣家につかえた海賊大名である九鬼守隆(志摩烏羽三万古)は、自分の家来たちに秀頼をおがませてやりたいとおもい、沿道の堀川竹屋町のあたりで借家一軒をこの日だけのために借りた。その一日ぶんの借り賃として、家主にはらった金が小判五両であった。五両といえば、その程度の家を買いとれるほどの額である。
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■豊臣家をほろぼすために家康がひねりだした悪智恵というのは古今に類がない

<本文から>
この時期、豊臣家をほろぼすために家康がひねりだした悪智恵というのは、古今に類がない。
「すべては、この崇伝におまかせあれ」
 と、口癖のようにいう坊主あたまの悪諜家が家康のそばにいたことが、家康の対豊臣家の陰謀をたやすくはこばせた。
 崇伝は、本多正純とともにただふたりの家康の謀臣のひとりである。家康は若いころは参謀を必要としなかった。関ケ原のすこし前ぐらいから家康の生涯における、いわば悪謀の時期に入るのだが、かれが大量の悪謀を生産しなければならなくなってから、謀臣を必要とした。初代の謀臣は正純の父の正信であった。家康は正信に対しては、婦人しか入れない寝所にすら出入りをゆるし、関ケ原前夜の謀略は、すべてそういう雰囲気のもとですすめた。
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■徳川氏は豊臣家に関するかぎり、秀吉死後、一世紀をかけて悪のかぎりをつくした

<本文から>
これは余談ながら、豊臣秀頼のこの時期、京でもっとも殿舎や堂塔の壮麗な言といえば、現今の方広寺の東南にあった豊国廟であった。徳川家というもののすさまじさは、秀吉のこの廟所を三代家光の寛永十四年、ことごとく打ち砕いてもとの野原にしてしまったことである。秀吉はその生存当時、徳川家に対しどういう悪害もあたえたこともなく、むしろ家康を過当なほどに優遇し、怨恨などはないはずであった。しかもそれだけでなく、この豊国廟の東の阿弥陀ケ峰(東山三十六時の一峰)にある秀吉の墓所へも人夫のべ三千をのぼらせて墓石をくだき、基をあばき、骨をとりすてた。このため秀吉という人物は、墓すらうしない、明治維新成立の年まで二百数十年間祀られざる鬼になるという、常軌はずれの運命になった。前時代の支配者の墓まであばいて捨てるという徳川氏のやりかたは、どうにも日本人ばなれがしている。
 明治元年、その徳川幕府がたおれ、京で維新政府が成立すると、朝廷はかつて豊国廟のあった草野原に勅使を派遣して秀吉の霊をとむらい、さらに旧方広寺大仏殿あとに一社を建立したが、これが現今もある豊国神社である。往年の方広寺をしのぶ場所といえば、現今ではせいぜいこの神社であろう。
 ところで。−
 家康は、秀頼に対し、
「故太閤のご供養のために、太閤の万広寺大仏と殿舎を再建されよ」
とすすめたために、秀頼がまず大仏鋳造から着工した。着工して三年目の慶長十七年春、できあがった。次いで殿舎の建築がはじまった。さらに大梵鐘の鋳造にとりかかって、目下それが普請場の一角で進行している。
 秀頼はすでに、金銅の大仏とその殿舎のために秀吉の遺産のうち大判三万枚はつかいはたしていた。あと大梵鐘の鋳造費やら、開眼供養式やらを考えると、どれだけの金が要るか、気の遠くなるような大予算であった。
 −父君の供養のため。
などと家康がいったが、それが大うそであることは、このあと五十年後(寛文二年)に、
 「この像、天下無用のものなり」
 として、鋳つぶしてそのあと銭を鋳てしまったことでもわかる。とにかく徳川氏は、こと豊臣家に関するかぎり、秀吉死後、一世紀をかけて悪のかぎりをつくしたといえる。余談がつづくが、徳川氏はこのとき、鋳つぶした大仏のかわりに安っぽい木製の仏像をつくって安置しておいた。ところが寛政年間に大仏殿もろとも火災で灰になり、現今、京都博物館の北にある方広寺大仏殿(というほどの建物ではないが)の大仏というのは、幕末にちかい天保のころ、尾張の篤志家が寄進したハリボテのものである。
 さて、鋳造しつつある大梵鐘というのは、とにかく大きい。重さが六十四トンであるとはすでにのべた。高さが四・二メートル、口径が二・七八メートルで、現存の鐘としては、その大きさは奈良東大寺の鐘に次ぐ。
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■恐怖が淀殿の性格の一部をつくってしまっている

<本文から>
一淀殿とその側近は、いらだった。
 「市正から便りがあったか。駿府でいったいなにをしていやる」
 と、淀殿が毎日のようにつぶやいたのは、且元が駿府の家康のもとに行ったきり、なんの報告もしてこなかったためであった。淀殿がこのときほど片桐且元という老人を頼りにおもいつづけたことはない。恐怖があった。喚きだしたいほどの恐怖であった。淀殿は家康が本気で鐘銘の一件に立腹していると信じていた。家康が激怒のあまり、戦争をしかけてくるとおもっていた。家康の怒りを解かなければならない。それには且元であった。且元は家康の気に入りであった。且元だけがこの火を小さいうちに消しとめてくれると期待した。が、不安である。
 −いくさがこわい。
 というのは、淀殿のどうにもならない感情であった。淀殿は少女のころから城主の家族として二度も落城を経験した。それは地獄というようななまやさしいものではない。最初のときには城が燃え、実父が自殺をし、首になり、そのどくろはうるしで加工され、酒器になった。無数のひとびとが城の柱や床を血で染めあげて死に、まだおさなかった弟が敵の手にとらえられ、串刺しにされた。二度日の落城のときは義父と実母が、本丸にみずから火薬を仕掛け、城を焼いてその火のなかで死んだ。というような、それほどまでにおそろしい経験を思春期までにさせられた女性など、どの国にいるだろうか。少女のころからこの齢になるまで、淀殿が夢でうなされるのは、いつも城が落ちる夢であった。火のなかで逃げ場をうしない、敵の者がするどい醗をかざして追ってくる。淀殿はいまでも月に一度は寝床で叫び声をあげ、隣室で寝ている乳母の大蔵卿局によっておこされ、介抱された。昼間でも、ときにそうであった。宿直の侍女などがついうかつに戦さの話をしたりすると、隣室できいていても、痛が突きあげてきて、
 「もう、やめや」
 と、裂くような声で叫ぶのである。このため、側近の者は淀殿に聞えるような場所でいくさの話をする者はない。
 恐怖が、淀殿の性格の一部をつくってしまっているといっていいであろう。同時に彼女のこの恐怖が、豊臣家の政治の大部分をつくりあげているといってもよかった。淀殿が秀頼の名で巨財を散じ、津々浦々の神社仏閣の修理をし、ついには京の大仏殿まで再建したというのは、ひとえに戦さというこのおそるべき禍事が到来せぬよう、それを神仏の超自然力で封じこんでもらうためであった。この時代は、平安期ではない。戦国期を経て世間のひとびとに合理主義が自然とめだち、神仏など人の吉凶になんの役にも立たぬことを、この時代の大部分の人が知っている。それがこの時代の特徴の一つでもあった。淀殿も当世人である以上、彼女だけがこの点、ひとり中世人でいる。あるいは中世人でさえ神の浪費をしなかったといえるほど、それほどの大浪費を彼女がやったのは、戦争への恐怖が、もはや彼女の精神体質の髄の芯にまで食い入っていたとしかおもえない。
▲UP

■淀殿は秀頼のためのみを考えすぎ、それにとらわれていた

<本文から>
(ばかなはなしだ)
 と、勘兵衛はおもった。こんど家康がおこそうとしている対大坂戦というのは、豊臣家そのものをつぶしてのちのち乱のたねを絶やすのがめあてであり、具体的にいえば秀頼一人を殺せばよい、できれば毒を盛って殺せばよく、それがもっとも経済的であったが、それがための妙手がみつからないために大軍を催して大坂城攻めからはじめようというのである。家康の真意はそこにある。どういう貴人を形代に連れて来よいと、家康は秀頼一人の心をとめる以外に考えていないことを、淀殿はどうして理解できないのであろう。
 (関東の様子をみれば、わかるはずではないか)
 と、勘兵衛はおもうのである。家康は自分の老いにあせっている。子孫のために太閤の子孫を・根絶やしにしておくということを当然ながら考えている。その程度の家康の意中は、大坂城の楼上に住んでいても、すこし頭を冷やし、子への盲愛という囚われ心を去って考えてみればわかるはずのことではないか。
 (それがわからない)
 ということは、勘兵衛にとって、新鮮なおどろきであった。自分自身の運命について、この程度にごく明白な、理解しやすい、ごくあたりまえの思考の条件が、とても理解できないほどの愚人が世の中に存在しているということにおどろいたのである。それが、この城にいる。しかも権力の頂点にいる。
 (淀殿は、お頭がたしかか)
 とおもうのだが、べつにあほうであるといううわさはきいたことがない。要するに愚かというのは智能の鋭鈍ではなく、囚われているかどうかだということを勘兵衛はおもった。淀殿は一個の恐怖体質である。
 彼女にあっては、あらゆる事象はすべて自分のなかに規定してしまっている恐怖を通して見ることができない。秀頼のためのみを考えすぎ、それにとらわれ、それを通してしか事象を見たり判断したり物事を決めたりすることができない。
 さらには、これもとらわれのひとつだが、淀殿は秀頼という者を、よほど尊貴な存在と思い、揺ぎもなくそうおもっているらしい。ところが世間はそれほどには思わぬようになっている。関ケ原から十四年、天下の権は江戸にうつり、諸大名は徳川将軍をもって盟主とあおぎ、いまでは大坂の葦のあいだに豊臣家というものが残存していることを忘れ去ろうとしている。が、淀殿とその侍女たちの意識群だけは孤立していた − 世間から、である。右大臣秀頼さまはあくまでも天下のぬしで、その天下を一時、家来の家康に貸してあるにすぎないという解釈が、すでに宗教的にまでなっていた。そういう超政治的な感覚世界に淀殿は住み、そこから人事万般と世情を見ている。淀殿は本来良質な頭脳をもっているのであろう。しかし人間、賢明さというものをうみだすのは頭脳であるよりもむしろ意識であった。淀殿の意識では、世の中のどういうものも正確にとらえることができない。
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