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<本文から>
家康だけが、生きている。
だけでなく、秀吉の遺児秀頼もいる。ただ秀頼は、関ケ原の合戦のあと、家鹿によって天下をとりあげられ、この見はるかす範囲の土地、つまり摂河泉のうちでわずか六十五万七千匹百石という奥州の伊達家程度の大名にまでおとされてしまった。
「そのことは、江戸殿(家康)の悪謀である」
ということは、大名どもはいざしらず、京・大坂にすむ町人どもの定評であった。町人どもは、家康を悪党とみた。新興の江戸は日に日にさかえているのにくらべ、京・大坂のにぎわいは、関ケ原以後、とまった。
「しかしいずれは、江戸殿も、天下を大坂の秀頼御所におゆずりなされるのであろう」
と、町人どもはみており、その政権の大坂移譲が、京・大坂の繁栄を太閤のむかしにもどすための大きな希望になっていた。
家康は、世間の様子をうかがっている。
しかし、一方では徐々に自分の天下を津々浦々にみとめさせようとしている。
「無理なく、ゆるゆると」
というのが、家康というこのたぐいまれな現実主義者の変らぬ政治方針だった。たとえばかれは関ケ原で大勝を得て事実上の天下人になったのは慶長五年であったが、しかしすぐには征夷大将軍にならず、それになったのは慶長八年である。同時に、江戸幕府をひらいた。これによって家康の天下は公認されたが、
「しかし、失望するにはおよばない」
といううわさを、京・大坂にながさせた。
「江戸殿はなおも豊臣家を尊んでおられる。それが証拠に、江戸殿は朝廷に奏上して、秀頼御所を関白になさるそうだ」
将軍は武家の最高位であり、関白は公家の最高位である。世間の常識としてはほば同格であった。
「珍重々々」
と、京における最大の政界通ともいうべき醍醐三宝院の門跡義演までが、そのうわさを信じ、日記のなかで手ばなしでよろこんでいる。しかし、むろんうそであった。が、家康は世間に失望はさせても絶望させることをおそれた。このとき、ほば同時期に、関白ではないとはいえ、公家の最高位にちかい内大臣を、十歳(満年撃の秀頼のために世話をした。 |
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