|
<本文から>
"あいつは医者やから(あるいは土木作業員やから)わしは好かん"というのは、意味をなさないばかりか、全世界の医者と土木作業員に不愉快を感じさせるだけです。
地域・民族・職業・国家を、概念化して好悪をきめるということから、どのようにして扱けだすかというのが、古来、知性というものの第一歩の作業でした。
それにひきかえ、
「隣のおっさん、大きらいや」というのは、具体的で個別的で、じつにいいとおもいます。たまたまそのおじさんが新潟県人だったとして、「せやから、新潟県人はきらいや」という概念態度は、へんなものです。
ちょっと申しそえておきますが、一人前の知性にして、しかも"好き"ということがあります。中世ではこの精神にわざわざ"数奇・数寄"というえたいの知れぬ文字をあて、"身をほろぼすのも覚悟した精神の傾斜"ということで、讃美しました。
室町のころの数奇は、商人ならば身代をうしない、武士ならば領地をうしなうことを覚悟したものなのです芙正・昭和の文学青年という存在をそのころの親たちが心配したのも、数奇がたかまって身をほろぼすことをおそれたからです)。 |
|