司馬遼太郎書
ここに付箋ここに付箋・・・
          以下、無用なことながら

■地域・民族・職業・国家を概念化して好悪をきめることからどのようにして扱けだすか

<本文から>
 "あいつは医者やから(あるいは土木作業員やから)わしは好かん"というのは、意味をなさないばかりか、全世界の医者と土木作業員に不愉快を感じさせるだけです。
 地域・民族・職業・国家を、概念化して好悪をきめるということから、どのようにして扱けだすかというのが、古来、知性というものの第一歩の作業でした。
 それにひきかえ、
 「隣のおっさん、大きらいや」というのは、具体的で個別的で、じつにいいとおもいます。たまたまそのおじさんが新潟県人だったとして、「せやから、新潟県人はきらいや」という概念態度は、へんなものです。
 ちょっと申しそえておきますが、一人前の知性にして、しかも"好き"ということがあります。中世ではこの精神にわざわざ"数奇・数寄"というえたいの知れぬ文字をあて、"身をほろぼすのも覚悟した精神の傾斜"ということで、讃美しました。
 室町のころの数奇は、商人ならば身代をうしない、武士ならば領地をうしなうことを覚悟したものなのです芙正・昭和の文学青年という存在をそのころの親たちが心配したのも、数奇がたかまって身をほろぼすことをおそれたからです)。

■幕末、勝海舟だけが日本人だった

<本文から>
 幕末、勝海舟という人物は、異様な存在だった。
 幕臣でありながら、その立場から自分を無重力にすることができた上に、いわば最初の"日本人"だったといえる。
 こんにち"人類"というのがなお多分に観念であるように、江戸体制のなかでは"日本人"であることがそうだったろう。たとえば、武士はそれぞれが所属する幕藩制のなかで生き、立場立場が限界だったし、庶民も、身分制から足をぬいて考えることができなかった。
 海舟だけが脱けえた。海舟がそのように海舟たりえたのは素質だけでなく、封建門閥制に対する憎悪もあったかと思える。
 海舟におけるその感情は性悪というべきもので、しばしば精神の平衡をうしなわせるほどに深刻だった。たとえば、かれが成臨丸で渡米することになったとき、勝は当然総指揮官になるつもりでいたところ、にわかに門閥出身の木村摂津守が船将として上にすわり、海舟は次席になってしまった。よほど不満だったのか、航海中も艦長室にとじこもり、ついには太平洋の真ん中で"ポートをおろせ、おれは江戸へ帰る"と言いだしたりした。
 しかしながら、海舟のえらさは、そういうえぐさをいわば糖化し、かれの中で"日本人"として醸造し、それ以上に蒸留酒にまで仕上げたことである。
 さらにいえば、かれはそのもっとも澄んだ分を門人である浪人坂本竜馬にうけわたした。
 そのことについては『竜馬がゆく』で十分書いたつもりでいる。
 ただ海舟における思想以前の前掲の生ぐささについては、主題とは無縁なためにふれなかった。
 が、書きおえて二十余年経ってもなお海舟のことが気になっている。昨年末も、ただそれだけの目的で、成臨丸が造られたオランダの造船所を見に行ったりした。
 その成臨丸を操艦しつつ日本にきたカッテンディーケ少佐こそ、海舟思想の成立にとって重要な触媒をなしたのではないかと思うようになった。

■『翔ぶが如く』は孤島になった東京政府と巨大な西郷幻像との対決を主題

<本文から>
 小説『翔ぶが如く』は、大政官の時代という、私どもが暮しているこの団(あるいは社会の足もとともいうべき時代に触れたくて書いた。うかつだったのは、当初対象を切るつもりで書いていたのに、流れているのは自分の血であるのに気づいたことである。
 革命が幸福をもたらすというのは、ひょっとすると二十世紀の迷信かもしれない。
 それはともかく、江戸時代が終焉する瞬間まで、日本という文明は特異すぎた。その体制が、一朝、爆けるような唐突さで崩壊し、国際社会に入るという、いわば"普遍化"を遂げるべく大政官が誕生した。明治維新から同十年までの変化は、文明の一変という震度の大きさにおいて、フランス革命やロシア革命よりもはるかに大きかったのではないか。
 新政権は、東京におかれた。名称までが、風変わりだった。八世紀以来の極度に古めかしい名(太政官)を呼称しつつ、およそその呼称とは正反対の、西欧文明を盛大に吸入して国内に分配するという装置だったのである。
 しかもその権力は、日本史上、もつとも強かった。周知のように、明治維新(一八六八年)は、士族(当時、日本の人口は約三千万で、そのうち七パーセントほどが士族)によっておこなわれたのだが、そのくせ、太政官に拠る士族(官員)たちは、明治四年、彼らの旧主である大名を廃止(廃藩置県)してしまっただけでなく、自分たちの仲間である全国数百万の士族を失業させたのである。
 おかげで、四民は平等になった。だが農民に対しては、租税を米でなく現金でおさめよ、と命じた(米で国家予算を組むことができなかったためである)。農民史上、かれらをもっとも苦しめたのは、この金納制だったのだが、ともかくも四民それぞれの苦しみのなかで、まがりなりにも国民国家が成立した。
 明治維新についてひとびとが堪えたのは、そのようにしなければ西欧の植民地になるという危機意識が津々浦々にいたるまで共有されていたからであったろう。大政官は、その危機意識の上に乗っていた。しかし明治四年以後、全国規模で不満がくすぶりはじめ、東京政府は不平の海の中の孤島になってゆくのである。
 "孤島"の項点に、薩摩出身の大久保利通がいた。大久保は経論家として不世出だったし、かれとその配下の官員たちは有能だったということもあって、かれらが明治十年までにつくりあげた新国家は、その後の日本国の原形をなしたといっていい。
 当初、その政権に西郷隆盛もいた。という以上にかれは倒幕の総帥ともいうべき存在だったから、本来、東京政府はかれの政府といってもよかった。口うるさい英国公使パークスさえ驚歎した明治四年の廃藩置県も、西郷が"よろしかろう"と承諾したことによって、さらには個人的威望によって可能だったともいえる。
 その後のかれのふしぎさは政権からつねに一歩退き、やがて世捨てびとのようになったことである。
 かれは、稀有なほどに巨大な感情の量を蔵していた。かれは、威張ったり、栄華を誇ったりする官員たちに対して激しい嫌悪を感じ、たとえば詩の中でかれらを「虎狼」とののしり、秘かに人面獣心とつぶやいたりした。鬱屈のあまり、ついには、「何のために徳川家を倒したのか」とまで言い、自分がやった明治維新への疑問をさえもつのである。
 やがて単身、逃げるようにして東京を離れ、帰山した。その後、鹿児島で狩猟の日々を送っていた西郷は、すでに反政府という磁性を帯びた全国の不平士族にとつて、大いなる磁石のようになった。
 さらには、当人はいっさいの政見を口にしないのに、救世主のような存在として印象されるようになった。百人が百通りの幻想を西郷に託し、やがて幻の西郷像が日本国をおおういきおいになるのである。
 『翔ぶが如く』は、そういう情況の中で進行する。孤島になった東京政府と、巨大な西郷幻像との対決を主題としたつもりでいる。
 副主題は、読む(観る)人の受けとり方さまざまにまかせたい。
 たとえば、十三世紀以来の武士の終焉をロマンティシズムとしてとらえてもく、また、東京に成立した日本史上最強の権力と、それに対する在野、という図式でみてもいい。あるいは、単に経綸家である大久保と道義的感情が豊富すぎた西郷との私闘とうけとるのも、自由である。
 主役は、時代である。あるいは、薩摩隼人である。かれらは革命をおこしながら、大
挙してそれをこわそうとした。
 薩摩藩士は、江戸時代、もっとも武士らしいひとびととして世間から見られていたし、実際もそうだった。本居宣長は、古代語としての隼人の語源を身動きの迅さでとらえたのだが、『翔ぶが如く』という題名は、薩摩隼人へのそういうイメージから得ている。同時に幕末から明治十年までの時勢の流れの早さをもかさねたつもりでいる。
 私は、どちらが善とも悪とも書かなかった。農民をふくめて、維新から明治十年までを、ひとびとがよく堪えたことに、大きな感動をもちつづけている。

■信長が卓越した造形美術の理解者だった

<本文から>
 室町体制がくずれて地方々々に出来星の大名が出はじめると、かれらも教養という装飾を身につけるべく都から連歌師をまねいた。宗祇や宗長のたぐいであった。ただし、尾張の信長にはその方面の素養も趣味もなかった。
 しかし、信長が卓越した造形美術の理解者だったことにおどろかざるをえない。
 たとえば狩野永徳を発見し、鼓舞したのも、かれであった。永徳は障壁などに松一つを長さ何丈に展開し、また人物も高さ三、四尺ほどにも描き、金箔・群青を多用して、絵画史上先例のない豪宕な作品空間をつくりあげた。
そういう永徳をつき動かしたのは、信長がつくった安土風という時代の気分であった。信長が、歌学を無視し、新興の茶に目をつけたのも、この気分のあらわれである。
 その年常における永禄十一(一五六八)年という年が印象的である。
 かれはこの年の秋、摂津(いまの大阪府)に侵入し、いまの高槻市の芥川にあった三好氏の城を陥とした。
 その芥川での陣中、信長の将来を買った堺の代表的な富商今井宗久が訪ねてきて、名物「松島」の茶壷と「紹鴎茄子」を贈った。また近畿の旧勢力の松永久秀も、茶人「九十九髪」を献上した。それまで、信長は茶など、ろくに知らなかったのではないか。
「九十九髪」は足利三代将軍義満が所持したものといわれ、その後、足利義政の手に落ちた。さらに、転じて山名政豊のもとにゆき、三好宗三も持っていたことがあり、宗三をへて松永久秀のものになった。いわば、権勢の象徴のようなものであった。
 「茶トハ、カカルモノカ」
 と、信長はおもったにちがいない。
一見、らちもない道具が、権力者に愛惜されることによって天下の名物になるのである。この風を増幅すれば、歌学などよりはるかに権力の装飾物もしくは呪具にちかいものになるのではないか。むろん、堺の"林下の禅"という見方からすれば、不埒にはちがいないが。

■発祥地のインドで衰弱した大きな理由の一つは平等を説きすぎたから

<本文から>
 仏教は、発祥地のインドで衰弱していきます。その大きな理由の一つは、平等を説きすぎたからでしょう。釈迦はインド的な差別制度であるカーストをみとめませんでした。そのことがインド人にとって魅力だったという時代がすぎ、カーストを認めないことに、逆にそれじゃ空想じゃないかというとりとめのなさを感じさせる時代がはじまったのだと思います。
 仏教は北上します.
 北上していくうちに、かつて西のほうからやってきて定住していたアレクサンドロス大王の兵隊の子孫、いまのアフガニスタン、パキスタンあたりに住んでいた連中と出会います。彼らはヘレニズムをもっていました。特技はヴィーナスを作る能力で、つまりは人間とそっくりの物を作れる彫刻家をもっていました。そこへ非常に形而上性の高い仏教が北上してきて混じり合ったときに、土地の人が、そんな難しいこと言われてもわれわれにはわからない、その仏様はどういう形だ、教えてくれれば私たちが彫刻や絵画にしてみせる、と言ったであろうことが、仏像のはじまりだと言われています.
 これがガンダーラの発祥で、ギリシャの造形能力とインドの思弁能力や形而上性とが合致したのです。その場所から仏教と仏像が、日本に向かって歩きはじめたわけで、ずいぶん歳月がかかっています。
日本にむかっで歩きはじめた途中、こんにち流行やのシルクロードのあたりで、どうやら阿弥陀信仰やお経ができたようです。ですから、浄土教というのはお釈迦さんとも関係なく、仏教そのものの正統の流れともじかの関係はありません。
釈迦は、みなさん自分で解脱しろ、という。
ところがそうしなくてもいいと阿弥陀如来はいうのです。つまり阿弥陀如来には固有の本尊というものがあって、人を救わざるをえない、人が逃げだしても救ってくださる、そういう救済思想が、仏教の名を冠して登場してきたわけです。
仏教における救済思想の誕生は、キリスト教と関係があるのか、あるいはペルシャのゾロアスター教の刺激をうけたか、ともかくも救済宗教が既存した土地で阿弥陀経が成立したんだと思います。
このことはすでにもう明治時代に言っている人があります。明治時代どころか、江戸時代の富永仲基(一七一五〜四六)という人も、浄土教だけでなくそれをふくめた大乗仏教そのものが(大乗の諸経典をむろんふくめて)仏説にあらず、つまりお釈迦さんの教えにあらずと言っていますが、これはたいしたものです。
しかし宗教というものは思弁的なものであって、歴史学的なせんさくを必要としないものです。いずれにしても、こうして阿弥陀経ができ、やがて中国に行き、中国語訳されて日本へ伝わって大きく花をひらかせることになります。

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