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<本文から>
市兵衛は、そのまま兵糧蔵にひそみ、数日のちに出た。罪は、別所家の家臣、被官でないということで不問に付きれた。雑賀の舟鉄砲が、そのまま沙汰やみになったのは、指揮者の市兵衛が、その任務を放棄したことにもよるし、また、戦況はそれどころではなくなっていた。市兵衛が兵糧蔵に入った日から四日目に、本丸、二ノ九とともに連立する新城が、寄せ手のためにおちたのである。
天正八年正月十五日、別所長治は、城内の飢餓の惨状を思い、これ以上家臣、庶人に苦悩を与えるのは罪であるとして、近侍宇野右衛門佐に書状をもたせ、秀吉の部将浅野弥兵衛長政の陣に降伏を申し入れた。その条件は類がすくなかった。
「来る十七日申の刻、長治、吉親、友之ら一門ことごとく切腹仕るべく候。然れども、城内の士卒雑人は不怒につき、一命を助けくだされば、長治今生の悦びと存じ候」
秀吉は、「別所侍従こそ武士の鑑である」としてその申し出をゆるし、長政に命じて酒肴を送った。十六日、長治は城内の士卒のすべてを本丸大広間にあつめて紋別し、十七日、郭内三十畳の客穀に座を設け、白綾の敷物を血に染めて自害した。
山城守吉親、彦之進友之これにつづき、さらに、長治の夫人は男児二人女児二人をつぎつぎに引きよせて刺し、最後にみずからのどを貫いて死んだ。吉親の夫人とその子はもとより、長治の舎弟彦之進友之の新妻も十五歳の若さでその夫に殉じている。
「いまはただうらみはあらじ諸人の命にかはるわが身と思へば」
というのが、長治の辞世であった。夫人のそれは、
「もろともに 消えはつるこそ 嬉しけれ 後れ先立つ 習ひなる世に」
雑賀市兵衛の心をくがれさせたこの城主夫妻の美しさは、ふたつの辞世のなかに凝結していた。東播の名族として、歴世十四代の家門をほこった別所家は、ここにほろんだ。
開城後、義観と市兵衛は、石山城にもどった。等岳坊義観はその後、石山城で負傷し、播州に隠れた。義観を開基とする寺院がいまで兵庫のどこかにあるはずである。石山の落城後、雑賀市兵衡は、平蔵をつれて紀州へもどった。治郎次の田を買ったか、それとも嘉兵衛の山田にきめたかは、つまびらかではない。 |
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