司馬遼太郎著書
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          韃靼疾風録 5

■歴史はただ一枚の関門の扉で潮流を変えた

<本文から>
 遼東の地で、総司令官の洪承疇や外伯父の祖大寿が女真側に寝返ったとき、呉三桂だけはかれらに倣わず、脱出して遼西の寧遠城にもどり、明将として孤忠を立て、孤塁をまもった。あのときの行動も、じつは窮地での跳ねっかえりだった。たまたまそれがあとで忠と解釈されたにすぎない。
 いま、呉三桂は奇妙なことを口走っている。陳円円を買うのに、周嘉定伯に多額の金銀を支払ったが、そのわりには数夜しか寝ていない、というのである。
「さすがに、わが閣下はたいしたものだ」
 楊坤は、大きく笑った。
「閣下のあきらめのよさよ」
楊坤は、そういうふうに、この場の空気をとりつくろおうとした。
呉三桂が、陳円円と三夜寝たとすればそして身うけ金が三千両であった場合一夜が千金の値いになる。まことに豪快で、皇帝といえども味わえぬ風流というべきではないか、と楊坤は囃したのである。
「あわれ、一篇の名詩を読む思いがいたします」
 と、楊坤はいった。
「ばかな。−」
 呉三桂は不覚にもそれに乗らなかったばかりか、顔じゅう口にしてしまったような憤りとともに、怒号してしまった。
「山海関の門を開けろ。−」
 このひと声が、歴史を変えた。
 清軍を明の本土になだれ込ませろ、といったも同然だった。
 明のために山海閑の大関門を守ってきたこの将軍が、その任務を放棄したばかりか、異民族を洪水のようにこちら側に入れさせるという。
 史上、呉三桂ほど、劇的な立場にいた者はいなかった。
 この場にあっては、歴史はただ一枚の関門の扉で潮流を変えようとしている。
 呉三桂がそれを内側からおさえ、もしそのまま閉じつづければ、李自成の「順」という漢族の帝国ができたろう。山海関を開けることによって、異民族の清が成立した。
 かれは、漢民族の国土そのものを売った。
 動磯は、女だった。漢民族の一将が、陳円円をうばったことに憤り、面当てとして異民族に国を売ったことになる。
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■満韃子の騎馬によって李自成の兵は潰滅

<本文から>
 かれは、小火から近い自分の本営の部隊を割いて救援にやるべく、あわただしく命じた。いそげ、と李自成は叫んだ。部隊は、横走りに−敵に側面を見せつつ−駈けだした。
 その横腹へ、真黄色な突風とともに、見たこともない大軍団が突撃してきたのである。
 おどろいたことに、全軍が騎馬だった。その迅速さは、風に劣らず、異常なことに軍事につきもののひるみというものを見せない。何万という馬蹄が土を噛み、その土が風にまきあげられ、風が馬速をはやめ、そのなぞの軍団をつつんだ。巨大な幌が旋回するように黄煙が前進し、何千、何方という槍になり、矢になって突っこんできた。
この異様な軍団は、疾走しながら騎射をした。矢は風に乗って遠くへ飛んだ。たちまち李自成の本営軍の第一陣、第二陣が潰減した。黄煙のかたまりは、敵の屍の山をとびこえては進んだ。
 庄助はバートラとともにその黄煙のなかにいた。
 かれの常識では、日本でも明でも、騎馬の士は一騎ずつある程度の間隔距離をおくというふうだったが、この集団はたがいに馬の腹をこすりあうような密集のしかたをとり、隙間もなく揉みあってすすむのである。李自成軍はみじめだった。戦う前に、射られ、あるいは馬蹄に踏みにじられ、鉾を交わすという騎馬戦さえそれをするいとまがなかった。ついには女真騎馬兵の馬影を見たとき、漢兵のなかで気死してしまう者さえいた。
 「満韃子だ」
 と、たれかが叫んだとき、恐慌は最絶頂に達した。
 こんなばけものが、なぜここに出現したのか。
 戦いは序盤からいきなり終盤になった。李自成の兵はたれもが敵について不審に思うより前に、逃げだした。李自成自身がまっさきに逃げた。流民軍もその将も、本来は逃げることを恥辱としないのである。
 逃げる者は武器をすて、甲胃をぬぎ、逃げ足を軽くした。
 かれらが女真人兵を見るのはいまがはじめてとはいえ、その敵しがたい強さについては、たれもが聞き知っていた。李自戌の兵にとって、相手は同民族の漢人ではない。そのことがなによりもぶきみだった。戦って仔豚のように殺されて、何の得や名誉があるだろう。それにしても、地から湧くようにして満鞋子騎兵があらわれたことは、たれにとっても夢のようだった。
 海岸に近い翼も、他の女真騎兵団によってずたずたに切りさかれた。この海浜部隊は李自成軍の陣尾というべきもので、これへの攻撃は睿親王ドルゴソみずからが指揮した。この戦場も、烈風が女真軍をたすけた。帝国の興るときには、奇跡があるのかもしれない。女真の掘起のもとになったヌルハチのサルフ会戦以来、清の正念場の戦いを烈風が二度にわたってたすけたことになる。
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■辮髪形を国是とし領域をひろげて行った清帝国

<本文から>
いま清朝にとって必要なのは反骨や硬骨の士ではなく、この種のおべっか者だった。
「よく言ってくれた」
 睿親王は徽笑した。
 しかし、返答はべつなことをいった。
「辮髪の強制は、いそぐことはない」
 本来なら、いそがねばなるまい。
 このことには、くりかえし触れてきたが、女真人の人口はまことにすくない。
″清朝″
 と称してはみたものの、その点の心もとなさは、一山の蟻を一人でのこらずつまみとろうとする空想に似ていた。
女真人の人口は、せいぜい五、六十万人で、兵となると、後方勤務や病人まで入れて十数万でしかなかった。
この人数で中国大陸を征服しょうとしている。ここまでくれば征服しかなく、もし長城外の故郷へ退きかえせば、士気がおとろえ、それにひきかえ旧明の勢力が勢いをえて逆にこの辺境の少数民族を押しつぶすだろう。
征服するには、強制辮髪しかない。いままでも投降した旧明の兵はことごとく辮髪させ、つまりは仮りの女真人に仕立てているのである。辮髪がふえればふえるほど、清兵がふえるというふしぎな数字を演出した。
 さらには、すでにふれたように庶民をも辮髪にさせてきた。以後も、その方針だった。さからう者はこれを殺す。殺すべき者が、ひとめでわかるのである。ひとびとは殺されまいとして辮髪にしたし、以後もそうなるであろう。辮髪がふえれば、そのぶんだけ清の民がふえることになる。征服地をひろげることも大切だったが、それ以上に辮髪頭をふやすほうが、絶対少数の征服軍にとって、重大だった。ただ、一山の蟻に対していっぴきずつ白い胡粉を塗りつけてまわるほどの手間かずが要る。
「辮髪」
 なんと異様なものであろう。それにしても、髪形を国是とし、それでもって領域をひろげて行った帝国は、世界史にない。
 ところで、北京城内の場合である。
北京に入城して早々、市民全員にこれを強制するのは、反発がつよすぎるのではあるまいか。
 むろん、反発が強くても、清兵の兵力さえ豊富ならば、市民をおさえつけて、強制できなくもない。ただ、それをやるには圧倒的な人数の守備軍が必要だった。清軍の大半は李自成を追って遠征しているのである。
(いまは、まずい)
 と、容親王はおもったにちがいない。
 それよりも、旧明の首都の治安が大切だった。
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■帰国した庄助は唐通事として生きた

<本文から>
「それでこそ、亡き桂庄助どのもあっぱれなる松浦武士」
 丹後はうれしげに一礼した。
「−はて」
 この家老は、庄助を見つめた。
「手伝うてくださるまいか。ぜひ庭先までご足労を」
 といい、さきに立って庭足駄をはいた。
 丹後は庭へおりると、枯枝をあつめはじめた。庄助もつい手伝い、やがて拾ったものを大きく積みあげた。爆石を打って火花をきり出したのは丹後だったが、火口を寄せて炎をつくったのは、庄助だった。
 やがてたき火がさかんになった。
 丹後は懐中から先代丹後の書類をとりだし、その表紙を庄助にむけ、ご異存ござるまいな? というふうなしぐさで念を押し、やむなく庄助が点頭すると、袂をひるがえして火の中に投じた。
 炎が大きくなり、やがて灰になった。もはや、庄助は存在せず、あとは、唐通事李一官としての余生がつづくのである。もうひとこと言えば、唐通事としての区々たる吏務のなかに、この人物の晩年はうずもれることになる。
 いつのころか、庄助は職を息子に継がせた。ただしシュアラーという名はこの世にはなく、日本名鹿邑太郎左衛門として、内通事から出発し、ほどなく小通事に昇進した。その従者として、庄助以来二代に仕えた石伏魚がいた。
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