司馬遼太郎著書
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          韃靼疾風録 4

■庶民が王朝の害から自分と縁者をまもるための秘密組織−パン

<本文から>
歴代、王朝というものはその末期において苛酷でなかったためしはない。大官たちがわが身を守るための組織を朋党といい、庶民が王朝の害から自分とその縁者をまもるための秘密組織をパンという。一個の人間は幾種類ものパンを持ち、それを裏切ることはまずない。儒の五つの徳目の一つである信によってこの見えざる網はつよくむすばれているのである。
 ドルゴソが、蘇州に縁のある漢人をその地に遣ることをしないのは、蘇州に着けばその人物は多分主命よりもパンのほうを重んずるだろうとアビアは見ている。
「庄助殿なら、たとえ蘇州へやってもそういう心配はない」
 アビアがいった。
「それに、毎年、澡塘子へ行きつづけている庄助殿の愚直さを睿親王ドルゴンは珍としたのでしょう」
「睿親王は、漢人を蘇州に送っていないのだろうか」
「それは送っているでしょう」
 その上、さらに庄助殿をも送ろうとしているだけです、とアビアはいった。
「わしは、それほど愚直ではないさ」
庄助は、なにやら不愉快だった。
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■睿親王の聡明さ

<本文から>
両者には、立場のちがいがある。
 ひとつは、明と女真の体制のちがいである。女真の大汗(皇帝)の権力は多くの貴族に推戴された上に成り立っていて、もし貴族がいっせいにそむくようなことがあれば、その地位から墜ちざるをえない。このためたえず貴族たちの感情や利害をそこなわぬように気をつかっていなければならないのである。
 睿親王はその大汗ですらなく、幼少の大汗の摂政なのである。かれは幼い大汗の生母をめとったから、大汗の義父にあたるという都合のいい立場はもっていたが、このことについても睿親王にうしろめたさがないわけではない。先王の妾をその子が相続するというのは蒙古民族などにしばしば見られるところで、古来、漢民族から野蛮というものの好個な例としてあげられてきた。
 ともかくも、睿親王は宮廷や貴族たちにさまざまな気づかいをしつつその権力を行使しているために気の休まるいとまがない。ということは、睿親王が、無制限の権力と聡明さをもちながら、暴慢になったり、増長したりすることがない、ということでもあった。
 この点、明の皇帝の権力は、それ自体のものなのである。伝統思想として、皇帝は天命に拠っている。
 明の皇帝は、その家庭である宮中においては宦官という去勢男子−本質としては奴隷−を使用している。皇帝は、いわば奴隷主でもある。
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■明帝自殺

<本文から>
文中、「女真族ノ興、明廷ノ亡、此ノ一城ニアリ」とあるように緊張の時期はながかったが、庄助がその郊野に立っているこのときには、事態はにわかに弛んでしまっていた。
 寧遠城は、空域になりはてていたのである。
 この城の守将は、呉三桂だった。
 このとし、流民の王李自成が計百万と呼号する(実数は二十万ぐらいであろう)軍をひきいて北京にせまった。
 毅宗は北京を守るべき優勢な軍のないことに狼狙し、明朝最大の軍ともいうべき呉三桂の軍をよびかえした。呉三桂は寧遠城を空にし、将兵および住民五十万をひきい、山海閑をくぐって北京に急行したが、その途中、信じがたいことに北京城は李自成によって陥された、という報に接したのである。
 それ以上に、呉三桂以下が呆然となった事実は、皇帝毅宗は宮殿の奥で首をくくって死んでしまったということだった。明は瞬時にほろび、この大陸を統治すること二百七十六年という王朝の末路にしては、ほとんど煩死にちかかった。
北京城を守って戦死した者など、たれもいなかった。
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