司馬遼太郎著書
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          韃靼疾風録 3

■大汗は庄助を認め日本府を置く

<本文から>
 庄助は、笑いだした。単に枯草というだけで、草の名にはならない。女真人は蒙古人のように遊牧しないため、草に関心がうすく、いちいち名をつけないのである。要するに名などはない。女真では、草の名を知りたければ蒙古人にきけ、などという。
「わかった。わしの女真名を、オラハにしよう」
「庄助、なぜ、女真名をつけるのです」
「従軍するのさ」
 その後、庄助は大汗ホンタイジに謁を得ていない。しかし大汗のほうでは庄助の存在をわすれてはおらず、ときどきバートラに諮問していることを庄助は知っていた。あるとき大汗は、
「かの者は、日本の甲胃をたずさえているか」
 と、バートラに下問した。
「否」
 と答えればいいものを、篤実なバートラはいちいち御前をさがって内城のそとの「日本府」(といって、ありようは庄助の住まいにすぎないが)にやってきて、実否をたずねるのである。甲胃など持っていない、と庄助が答えると、
「そうだろうなあ」
 と、すずしげに笑い、そのまま内城にもどって復奏する。
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■日本と大陸の個の違い

<本文から>
 蒙古ふうではなく、歩兵中心の漢式・高麗式だった。かれらはただ一種類の軍装で鐙った単色の波涛であり、音響道具をあいずにして進退し、それもすべて面としてうごいた。点としてはうごかなかった。そこに、個人はない。
 そこへゆくと、迎撃した鎌倉武士たちは、個をかきあつめたものにすぎず、戦士としての意識も個であることから出なかった。個こそが戦う唯一の主体であった。そこに軍が存在したとすれば、元軍と基本思想が異っていた。鎌倉の場合、軍とは個々をタシ算しただけの人数にすぎなかった。
 このことは、日本国の社会に根づいていた。
 大陸とは異なり、鎌倉の場合、一人一人が田地を所有する農園のぬしであり、その土地所有権を、鎌倉幕府によって保証されていた。戦って功名をたてれば、その土地所有権は強化(安堵)され、逆であればとりあげられて、同族の叔父やいとこに所有権を移されてしまう。
 従って個であることが戦いの場でも必要だった。軍装においても、できるだけ個をめだたせ、乱戦のなかでもその功名が自分であったことを他に認識させようとしてきた。
 戦国の世になると、日本なりに多少は集団主義になり、軍制も組織的になった。しかし戦いにおける個人主義はかわらず、むしろ個々の軍装に個々の特徽を顕示することは、むしろ鎌倉のころよりも濃厚になっている。
 といって、ふしぎなことは、倭人は日常においては集団が示す主題によく従い、個をあらわにせず、むしろぜんたいのために没我的になるという傾向がつよいということだった。女真人の個としての感情量の多さと、その噴出力とはまったく異っているのである。
(ふしぎなものだ)
 庄助はおもわざるをえない。
 庄助一個にしてもそうである。もし庄助が明人ならば国家(庄助の場合は松浦家)のことなど考えなかったろう。明人の場合、あくまでも自分本位であり、たとえ組織に属するにしても、血族か、擬似血族(秘密結社)に属するだけの人間だった。
 また庄助が、かれの立場においてもし女真人であったとすれば、松浦家に対してなんらかの感情が激発してしまい、糸が切れるように個にもどってしまっているだろう。
 が、庄助は、そうはしない。
(おれとはなにか)
 と、ときに考えこんでしまうが、よくわからない。ただ漠然と庄助が気づいているのは、自分がどう仕様もないほどに倭人だということである。
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■女真軍において将といえるほどの存在は一人しかいない

<本文から>
明将というのは、大なり小なり、関羽ひげや布袋顔のようなものであるらしい。教養があり、多能だが、信用はできない、と庄助はおもった。が、女真として使うに足る。ただし、女真の勢いが上昇気流に乗っていれさえいればのことである。つまり益さえあれば、かれらは決して裏切ることをせず、能力のみを出しつづけるのにちがいない。
 庄助は、紙凧を連想した。
 かれの故郷の平戸では、紙凧のことを「ふうりゅう」とよんでいる。凧をハタとよぶようになるのは、庄助の時代よりものちのことである。いまの女真は気流をつかんでうまく昇りつづけて行くだけが生きるみちのように思われた。気流に乗りそこねて落ちたり、糸が切れたりすれば、ひとびとが散って、女真族そのものももとの山林に消えてゆかねばならない。
(大汗ホンタイジには、そのことがわかっているはずだ)
 庄助がおそれるところは、女真軍において将といえるほどの存在は一人しかいないということだった。一人とは、大汗のことであった。ひとりが、諸状勢をあれこれ考え、整理し、価値づけをし、決定する。このことは、ヌルハチ以来の女真の伝統であり、たとえ、軍中、将才のある者がいても、大汗に嫉まれることをおそれて遠慮した。
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■庄助は土着してゆく不安にかられる

<本文から>
 また、その母であるアビアに対しても、庄助はよろこんでいるかにふるまっている。しかし、ときに目の前が白くなる。児を抱いているアビアでさえ線に描いた絵のようで、動きもなく、色もなくなってしまう。これは淋しさというようなことばで片づけられるものではない。
(このようにしてわしは土着してゆくのか)
という思いが、日とともに濃くなってゆくのをどうすればいいだろう。むかしばなしにある浦島子でさえ、乙姫とのあいだに子をなさずにもとの浜にもどったではないか。
 といっても、平戸が恋しいということではない。
(おれは何だろう)
という、腹の底に穴があいているような頼りなさだった。
年がすぎてゆく。
 年を決めて、庄助はおろかなほどの律儀さで、澡塘子へ出かけた。この山海関のむこうの洋上にうかぶ岩礁と砂洲の小島にゆくことだけが、庄助がこの世に存在している証のようなものに似ていた。
 庄助は、平戸を出るとき、江南へむかう福良弥左衛門がいったことを忘れない。
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■清朝の誕生

<本文から>
「清」
という国号を称する、ということを触れだしたのである。
 同時に、ホンタイジは亡父の時代の併称をやめた。すなわち漢文明の伝統的王朝呼称法による「清」のみを呼称し、たとえば「女真」という古くからのよび方さえ、これを停止すべく勅令を出した。中国式王朝めかしく「清」を称する以上、君主であるホンタイジは大汗という尊称を廃し、明とおなじく皇帝にならねばならない。ホンタイジは、放胆にもそのようにしたのである。ただし大汗の呼称は、傘下のモンゴル人に対してだけはこれを公称した。
 ホンタイジが清と称するのは、毅宗九年(一六三六) のことであった。これを知ったときの庄助のおどろきは日が西から昇ったほどに大きかった。
(いったいどうするつもりか)
″皇帝″であるホンタイジは、女真が国家をつくったばあいの−金以来の−基本的な病弊である財政難と慢性的な食糧難と衣料不足をどうするか、ということであった。それを解決することなく帝国をつくろうというのは、単に虚栄ではないか。
 ただし、ホンタイジに虚栄的好みがないことは、庄助もみとめざるをえない。この下ぶくれ殿は、むしろそれらの女真的欠陥の一挙解決のために帝国を呼称したのかもしれなかった。
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