司馬遼太郎著書
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          韃靼疾風録 2

■庄助は日本国差官とされる

<本文から>
 庄助は、勝手にしろ、と言いたかったが、この短気な日本語を表現すべき文章がうかんで来ないまま、じつと白い紙をみつめた。それをみて、天祥先生は庄助が自分の指摘に服したと見、両限から憎悪を消し、慈しみに似た笑顔をひろげた。庄助は天祥先生の笑顔を見るのがはじめてだっただけに、あまりの新鮮さにひきこまれて微笑った。
 先生は、満足し、さらに要求した。
「汝、スデニ服ス」
 すぐさま毛都督閣下に謁し、その旨を言上せよ、我は日本国差官にあらず、一降倭たるのみ、と。
(朝鮮国の懸念はそうだったのか)
 庄助は、目の前の霧がはれる思いがした。
 自分が、一降優にすぎない、と毛都督に表明することで、毛都督の背景に日本がある、というかれの朝鮮への虚喝も意味をうしなう。庄助がいうであろう公式発言を天祥先生は朝鮮宮廷に書き送るにちがいないのである。となると、朝鮮宮廷における親毛泥も勢いをうしなわざるをえない。
(が、この天祥先生自身、朝鮮における親毛派のはずだが)
 このへんは、わかりにくい。
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■アビアの複雑のいきさつ

<本文から>
馬大全とやらいう回々の武器商人が、仏郎機というふるびた青銅砲三門を女真族に売りつけるべく浦に船を着け、女真族をさがし出してかれらと浜辺で商談をつけた。そのとき、アビアが侍女とともに海と船を見たさに浜辺にきていて、浜辺の酒盛の最中に艀に乗って沖の本船へゆき、見学した。ところが、浜辺では不意にあらわれた明軍が、酒盛の最中の女真人と馬大全らを包囲し、すきまなく矢をあびせた。馬大全も女真人も死んだが、沖にいた船の連中はそれ以上におどろき、碇網を切って沖へ逃げた。船上に、アビアだけがのこった。水主たちは漢人ながら、アビアを、
「公主」
 とうやまって大切にした。船は南下し、そのあいだに、船中で反乱もおこった。日本の諸島にちかづいたとき、暴風雨にまきこまれ、船が沈み、アビアと一人の水主のほかすべて死んだ。…と庄助が話しおえたとき、アビアのほうが驚きを顔いっばいにひろげた。
「庄助殿は、なぜそんなにくわしくご存じなのです」
 と、平戸の御殿ことばでききかえしてきた。
「いま、水死をまぬがれたのはアビアともう一人の水主、といったろう。その水主が洩らした。わしがじかにきいたのではない。このあたりはややこしい。まず平戸に古くから住む漢人で、むかし海凍(海賊の親分)だった人物がいる。わしはひそかに老財神とよんでいたが、その人物のもとに身をよせていたのが、いまいう命びろいした水主だった。老財神からは丁二とよばれていたその男がかつて老財神に以上のこせを言い、老財神がわしらを送ってくれた老大に語ったのをわしがきいたことになる」
 述べおわって庄助は、息を入れた。
 バートラはよく理解したようだった。庄助はこの女真人がこの話によって気持をゆるめてくれたかと思ったのだが、どうやらその期待はむなしそうだった。バートラの高い頬骨のあたりに暗いひきつりがあらわれて、むしろ悲しげな表情をうかべつつ、
「よく理解した。その話の半分ほどは、わしもきいていた。回々の海繚、その男がわれわれに売るべくもってきた三門の仏郎横、突如の明軍の襲来…生き残ってこのホトアラ(山城)に帰ってきた女真人はただひとりだった。明軍がなぜあらわれたのか。あのあたり一帯は満・漢の墳とはいえ、われわれの力のほうがつよくて、明軍ははるか西方にひきさがっているはずの海岸だった。であるのに明軍がきた。なぜきたか」
 と、バートラがいう。
「そういうことは、わしの知るところではない」
「日本差官、汝が知らぬのはあたりまえのことだ。だから私はそれを教えるべくこのように語っている。私は、いまから述べるようなことがなければ、アビアの父に頼み、ごの娘を要っていたろう。ところでアビア、いまもむすめか」
「お前の知ったことか」
 と庄助は叫ぼうと思ったが、だまった。
「アビアの父のジェーソは、漢人に通じていたのだ。このためペイレの身分を剥奪され、愛新覚羅氏から除籍され、ファッター(縄)を賜わった。そのとき使われたのが、この縄だ」
「縊られたのか」
 庄助は、アビアの顔を見ることができなかった。
「アビアの母も、いまはいない。夫のあとを追って、みずから縊った」
「その縄でか」
「そうだ」
「えびす!」
 叫んだ。日本語だったが、語気でバートラに通じた。
「嘲罵するか」
 パートラは激しい勢いで立ちあがった。同時に、アビアの背後にいる二人の女真兵が、矢を番えた。殺しゃがれ、と庄助はおもった。
 庄助はあとで知ったことだが、女真人は罪人に対しては刀槍を用いることなく、四、五人がかりで縊殺するのである。
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■庄助の目的は女真が興るのか亡びるのかを探ること

<本文から>
「汝、よくぞ打ち明けた」
 汗は、くたくたと笑った。
「ところで、どう見た。女真は興るのか亡びるのか」
「まだわかりませぬ」
(いまの様子では、ただちに亡びないにせよ、興ることはあるまい)
と、庄助はおもっている。しかし相手の明の様子も兼ねあわせて考えねばならぬ。ともかくも澡塘子において福良弥左衛門に会い、弥左衛門の見開とつきあわせて考えることだ、琴白の結論が出てしまえば国へ帰ることになるだろう。その場合、アビアをどうするか。平戸へ連れて帰れば主命に反し、かといって置き去りにすればヌルハチの仕置によってその父母や兄と同様、殺されることはまぎれもない。
「澡塘子というのは、どこにある」
 汗がバートラにむかってきいたが、かれも知らなかった。汗もバートラも澡塘子が大地にあるとおもっていた。庄助は、地面に漢字を書いた。ホンタイジは、漢字を知っていた。
「海か」
「小島でござる」
 さらにその場所をいうと、万里長城が海で尽きる場所よりもさらに明国側になる。要するに、女真の勢力のおよばないところである。
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