司馬遼太郎著書
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          韃靼疾風録 1

■満洲は蒙古とは違い人のことを指した

<本文から>
 「満韃子には、さまざまなよび方があるのか」
「東胡とも東虜ともいう。この着たちはマンジュという菩薩(文殊菩薩)を信仰している。だから自分の種族をマンジュとよび、明人がその音に満洲という文字をあてたりもする」
 「満洲とは、人のことか土地のことか」
 庄助は、たたみかけた。
「当初は、人のことだった。土地をさすとは思えない。しかしすべて湖沼に湧く霧のようにあの連中のことは定かでない。かれら自身も自分たちがなにものであるかがわかっていなかったのだ。ちかごろになって一傑があらわれ、同種族を糾合し、明をその東方からおびやかす勢いになって、はじめて物がわかりはじめてきたのだ」
「くりかえすようだが、元の名残りではないか」
「蒙古ではありえぬ。蒙古は草原にあって五畜を追い、決して土を掘りかえして穀物の種をまくことはないが、満韃子は粗ながらも農をいとなみ、蒙古の好まぬ豚を飼い、小さな家をつくって定住している。ただ騎馬もわすれないために、戦いにあっては狂風をおこし、進退は好橘、人を殺すこと、草を薙ぐようである」
「−かの御科人は」
 庄助は、ついきいてしまった。
「マンダーツ (満韃子)の王族の娘か」
「知りたければ、御科人自身にきくことだ。大王の公主かもしれず、あるいはただの韃子小娘が馬から落ち、さらに海に落ちてここまで流れてきたのかもしれぬ」
 財神は、庄助に好意をこめてからかっている。
「彼女は、明船に乗っていたというが」
 庄助は、われながら、語気に悲しみがまじってくるのを感じた。
「知らぬ。たとえ知っていたところで、そこまで教えねばならぬほどの義をわしは感じない。あなたとの義縁は、まだその程度でしかない」
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■朝鮮は日本を倭奴と卑しく記していた

<本文から>
 「庄助は、おどろいた。どうやら朝鮮王が、満韃子の大汗ヌルハチに対して送った秘密の国書の草稿であるらしい。庄助が一語一語読み拾おうとする頭上から、毛文竜が、
 「わかるか」
と、いった。
 「高麗国は陽に大明国に従属しつつも、陰に満韃子と交通している」
(高麗の場合、むりもあるまい)
 庄助は、強大な軍事力をもつふたつの勢力から恫喝されている朝鮮の立場をおもった。
 満韃子が、朝鮮に対し、明をすてわがほうに味方せよ、と言ってきたことに対する朝鮮王の返書の草稿なのである。
「この朝鮮王が満韃子に送った国書は、幸い、高麗の大官のなかにも大明に忠ならんとする者があり、ひそかに写してわしの手もとにとどけてきた。そういう容易ならぬ書類を貴下に見せるのは、倭人についての重要なくだりがあるためだ」
 と、手をあげ、文中の数行を指頭でたたいた。
「ここだ、このくだりの真偽はどうか。日本国の人間なら黒白がわかるはずだ」
「しばらくだまっていてくれ」
庄助は、朝鮮王の文書を、一字一字たんねんに読みつづけている。
やがて、
「倭奴」
 という文字に出くわした。倭奴とは、朝鮮において倭国・倭人を卑しみきって使う俗語である。ちっぽけで卑劣で無教養で礼儀知らずの強欲老といった語感があって、それが国書の原案にまでつかわれていることに目を見はった。むろん、腹も立った。
倭奴ハ、我国(註・朝鮮国)ニ於テハ、万世アリトモ、必ズ之ニ報ユベキ讎也。
 あの倭奴といういやしい強欲老どもについては、わが朝鮮国が、万世、かならずこれに報讐すべき仇である、という。たしかに倭奴は両度にわたって朝鮮国を侵し、人を殺し、国土を焼いた。庄助の世代にとって、父や祖父の時代のことだ。
(こうも、憎まれているのか)
 庄助は、身のふるえる思いがした。
(いまは豊臣の世ではなく、徳川の世になっている。徳川家は朝鮮国に対して礼をつくしているはずだが、しかしこれによって見ると、そのうらみは解くべくもないらしい)
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