司馬遼太郎著書
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          大盗禅師

■儒学がおしえる「義」

<本文から>
 「倭の例でいえば豊臣の天下を、徳川が纂奪した。諸大名はその徳川に加担した。理由
はわが身が可愛かったからだ」
 と、蘇一宮が言ったのと同じことを鄭成功はいう。大坂ノ陣の例もあげた。「ああいうとき亡びを覚悟して秀頼の側に加担する大名がひとりでも出てもよかりそうなものだが、ついに出なかった」という。
「…蘇一官もおなじことをいっていたが、出なかったというのはなぜかね」
 と、仙八がきくと、鄭成功はあっさり、
「倭人が無智のためだよ」
 と、断定した。
 倭人はみな無学にして無智だからだという。かれにいわせれば、わが身の可愛さという人間本然の衝動をおさえるものが教養であるという。鄭成功がいう教養とは、儒学のことである。とくにこの場合、儒学がおしえる徳目のうち「義」という道徳が、自己保全の本能をおさえ、おのれの生命や欲得をすてさせて大いなるものの犠牲になる道をえらばしめるという。
「義は、人間の本然のものではないから学ばなければ身につかぬものだ。倭人はそれをせぬから、たがいに利を嗅いあうのみなのだ」
 だから倭国は野蛮国だと鄭成功はいう。
「しかしあなたも、半分偉人の血がながれているではないか」
 と、仙八はむくれていった。
 「流れている。それが私の誇りでもある」
 鄭成功はいった。
 「しかし、半分は漢人の血だ。さらには私の全人をあげて聖賢の道を学んだ0私は、もと南京の学堂の儒生であった」
 聖賢の道、というのが「文明」。という意味であろう。儒生であったということは「文明」をまもるべく義務づけられている。もと儒生鄭成功のいうところでは文明の芯は「義」である。仙八にもなにやらわかってきた。
 「しかし、文明の国であるこの土地でも、ひとたび清が強勢を得るや、明の封侯、将軍、吏僚の九割九分九厘がそれに対し死を賭して戦おうとせず、むしろ明の帝室を売るようなことばかりしたではないか。すると、野蛮の倭国とかわるまい」
 と、仙八はいった。
 鄭成功はうなずき、
 「そのとおり、倭とすこしもかわらない。しかしちがうところがある」
 後世だ、という。「義」というたてまえがある以上、後世はその基準をもって人間の善意を判断する。

■鄭成功の人気

<本文から>
 余談だが、この鄭成功という人物ほど、その死後の歴史のうえで幸福な存在はない。かれがあれだけ抗戦した相手である清国でさえかれを、かれの義心と義戦をみとめざるをえなくなり、その死後顧彰した。のち清国をたおした革命勢力もこの人物を民族的英雄としてあおぎ、その後中国の政情はさまざまに変ったが、鄭成功の人気だけは中国でも台湾でも、ついにかわっていない。要するになまみの人間としてはありうべからざるほどに無私なその義心と、その民族独立の戦いへの強烈な持続精神と、武将としての天才性という三つが、歴史のなかでのかれの名声の鮮度をこうも長くもちつづけさせている要件であるにちがいない。

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