司馬遼太郎著書
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          ある運命について

■乃木軍司令部は絶対安全圏の後方にさがりすぎていた

<本文から>
 当初、海軍が、艦砲を外して揚陸させるからお使いください、と申し入れたときも、乃木軍司令部は、
 「陸軍でやりますから」
  と、ことわってしまっているのである。海軍の艦砲は小さな艦の副砲程度のものでも陸で使えば堂々たる重砲になり得るわけで、いくら砲があっても足りないというこの作戦に海軍からの申し出をことわるのは愚というよりほかない。もっともあとになって海軍の申し入れを受けているのだが、当初から的確な攻撃プランをもっていれば、その実の核心に海軍砲を据えることができるわけで、あとから参加した海軍砲は結果は補助的な役割しか与えられず、十分な威力を発揮できなかった。
 第一回の総攻撃は死体の山を築くのみで完全に失敗していたが、それでも敵の要塞の火網をどんどんとくぐりぬけた運のいい小部隊が、要奉の背後ともいうべき望台にまで到着し、岩かげにとりついていたのである。その岩かげの小部隊に対しもっと増援をして旅順市街に突入させれば状況が変っていたことはたしかで、しかもその岩かげの小部隊を指揮していたのは、下級将校ではなく、族団長の二戸兵衛少将であった。かれは戦術眼からみて、自分のこの小部隊を増強してくれればなんとかなると思っていたのに、後方の軍司令部から退却命令がきたのである。
 一戸兵衛は、のちに、
 「前線の事情にそぐわない命令を軍司令部がどんどん出してくるというのが、自分にはよくわからなかった。しかしのちに軍司令部にゆくにおよんで事情がわかった」
 と語っているが、その事情というのは、まず軍司令部は絶対安全圏の後方にさがりすぎていて、彼我の状況にくらかったことであった。次いで軍司令部軍規がみだれていて、各参謀が十分に意見をのべつくすというふんいきから遠かったことであり、さらには、前線の状況を参謀みずからが見にゆくという例が、この軍司令部にかぎってなかったということである。これらのことは攻略戦の最後の段階で児玉源太郎が指摘している。
 要塞攻撃は、弱点を見出し、そこに攻撃力を集中するというやり方でなければならない。岩を割るときに条理を見出し、そこに鑿を入れてゆくということと同じである。 
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■日本陸軍の兵士の実態は、明治の鎮台兵の延長として終始した

<本文から>
思いあわせてみると、明治後、昭和初年までの知識人や文学者で軍隊に初年兵としてとられた者はいなかったのではないか。漱石も虚子も、徴兵をのがれるべく腐心し、成功した。
 日本陸軍の兵士の実態は、明治の鎮台兵の延長として終始した。明治初期の士族一般の感情としては、鎮台兵にとられて、土民とともに上等兵にしごかれるなどは、一つの屈辱であった。この感情は、明治中期以後ようやく厚く層をなす知識人にひきつがれた。大正期から昭和初期においても、この状況はあまりかわらない。大正十三年の徴兵検査に落ちた小野勇青年は「楓爽とし」、合格した長沖青年を気の毒に思うのである。
 いわゆる十五年戦争以後になると、すこしずつ状況の質が変ってゆき、太平洋戦争の末期にはまったく変った。その時期に徴兵されたひとがたまたま生き残って、敗戦後、重くるしい国家から解放されて、存分に軍隊のことを書いたが、しかし十五年戦争以前、遠く明治初年にさかのぼるまでのあいだ、だれも日本陸軍の足もとともいうべき内務班と初年兵についての体験を書いた者がなかった。
 明治からひきついできた鎮台的な軍隊の最後か、もしくは十五年戦争がはじまろうとしている最初というきわどい時期に、長沖一という若者が、その社会に嵌めこまれ、かつ書いた。書きあげたときには、十五年戦争のふんいきがほじまっていて、発表されなかった。むしろそのことが後の世を経験しつつある私どもにとって幸いだったかもしれない。文学的価値のほかに、この作品は歴史的な(ひねくれていえば風俗史的な)資料性を大きくもつにいたっている。軍隊内務班について知識や関心のないひとでも、昭和五年における知識青年の精神風俗というものを知る上で、なにごとかを感ずることができもかもしれない。
 まことにふしぎな思いがせざるをえない。昭和五年という、すでに可視的には溶闇の状態にちかい過去から、有意に郵便物がとどき、ひらいてみると、当時のひとりの若者の肉声がきこえたということであろうか。
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■藤田大佐の最後

<本文から>
松原一枝さんの『藤田大佐の最後』は、『別冊文蛮春秋』に分載された。載っているとき、私ははじめはなにげなしに読みはじめて、やがて読むことに熱中してしまった読者のひとりである。
 主人公の藤田という陸軍大佐は、日本帝国という八十年の歴史が、敗戦という大崩壊によって無数の日本人の運命を引き裂きつつ旋回したなかにあって、悲鳴ひとつあげずに歯車に切りきざまれてしまったうちの一人である。主人公は、満洲にいた。この架空の帝国ほ日本の降伏によって消滅するのだが、その帝国にいたなま身の日本人たちのうちに、たれ一人として数奇な運命をたどらなかった人はない。架空が去ったとき、なま身だけが残り、ソ連軍や、紅軍、国府軍の前に赤はだかで曝された。関東軍はすでにガランドウになっていたが、わずかに残った高級将校のなかに藤田大佐もまじっていた。かれは当時少将になっていて、にわか編成の粗末な師団(ともいえないような)の参謀長をつとめさせられていた。部隊が消滅し、主人公は漂泊の状態のなかにおかれた。そのあと信じがたいような汚名を着せられて地上から姿を消すのだが、松原さんはこの無名の一将校の生死のなぞに執拗にせまってその真相を解きあかそうとしているのである。
 これが分載されているとき、私は読みすすむにつれて、ただの読者ではいられなくなった。なぜなら私は主人公が大佐のころにその部下だったのである。主人公は戦車第一連隊の連隊長だった時期があり、私がわずかながら接触があったのはその時期のことで、その後の主人公の運命についてはなにも知らず、あの時期から二十七、八年後に松原さんの克明な追及ぶりを活字で追うにしたがって次第にそれを知るようになった。
 藤田さんはあの後こうなったのか、と私は驚いてしまい、その驚きのために冷静な読者である立場をうしなった。私は『別冊文垂春秋』 の編集部の知人に電話をかけ、「松原さんに私がなにかお手伝いできることがないだろうか」という意味の、いわば編集部がとまどうようなことを言ってしまった。
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■29年間も隠れていた小野田氏は純粋に論理の人

<本文から>
 私が言いたいことは、日本陸軍の作戦中枢は太平洋戦争をはじめたくせに、実際には玄人として、戦争という実務を担当する能力をうしなっていた。手に負えない戦争にふりまわされつつ、なんとか手にあうことをやろうとした例が無数にある。それらは作戦担当者としては素人以下の命令で、一例は島々の守備軍に対する玉砕の強制であった。玄人の作戦担当者なら恥じて狂い死にするかもしれないこんな命令を平然と出していたというのは、戦術思想としては元来子供なみだったからだろうと思える(実際にそうだった。太平洋戦争での参謀本部の作戦思考法というのは、ちょっと信じがたいことだが、素人以前の子供なみのものだった)。
 南太平洋戦線が破局同然になったとき、残置諜者を置きすてにしようということを誰が決めたのかはわからないが、その規模が微々としていることからみて、大きな作戦思想からうまれたものでなく、思いつきだったのであろう。
 しかし命令そのものは、被命令者のなかで生きた。命令者も、
「ああは命じたものの、適当に状況を判断していわゆる復員兵として帰ってくるだろう」
 と思ったにちがいない。
 私は、命令者に、以下の意味で同情せざるをえない。命令者をもふくめて私どもが持っている人間の多くの類型のなかに、小野田寛郎氏のような人物が、ふつう、この世に存在するとは思えないからである。
 小野田氏は、聡明な人のようだし、しかも、自分の生き方を自分で決めることのできるいわは自由な立場にいた。しかしながら、かれは「論理」の純粋性を信じ、それをもって自分の生き方のすべてを律するという、常人にはあまり見られない人物であるらしい。
 論理というのは、軍人を動かせる命令というものの秩序論理である。
 たとえば小野田氏は、比島方面の方面軍(第十四方面軍)司令官だった山下奉文大将の名前の命令書(昭和四十七年十月の第一次捜索団が作って撒いたもの)も、拾って所持していたという。
 「昭和二十年八月二十五日をもって、第十四方面軍に対する作戦任務を解除する」
という文面のものだが、これについて、読売新聞の(昭和四十九年)三月十二日付朝刊では、
 「山下司令官は自分の直属上官ではないので投降する気にはなれなかった」
と、氏の談話を載せている。
 軍隊の命令系統の論理では、小野田氏のいうところが唯一無二の正しさをもっている。とくに氏の任務は、通常の軍隊組織での通常の戦闘任務でなく、当時よくいわれた百年戦争を大想定した特殊な任務なのである。つまりは、一時的に状況が悪くなっても戦争はつづいている。小野田少尉は将来おこなわれるであろう主力の上陸を容易にするため、ルバング島に残留し、遊撃と諜報に任ずべし、と命令されている以上、山下奉文という雲の上の人がどういうビラを撒こうとも、任務を停止することはできない、ということであろう。
 小野田氏の服従は、論理への服従なのである。
 かれに任務を与えた直属上官の谷口義美少佐といえども、かれにとっては具体的人格でなく論理的存在なのである。小野田氏にとって谷口少佐は、ヤクザがその親分に恐怖したり畏敬したりするような人格的存在ではなく、例を替えていえば会社の平重役が自分の人事と生活の安危をにぎっている社長に媚びたり怖れたりしているといったふうな存在でもない。氏の論理では谷口少佐は論理上の記号で、純粋に抽象的存在であり、その証拠に二十九年も姿をみせないし、二十九年のあいだ一度の指令も送って来ず、むろん、月給をくれたり、進級もさせてくれないのである。
 そういう論理的存在にしかすぎない同少佐の命令を守って二十九年間、その命令どおりに任務をつづけてきた小野田寛郎という人は、もはや肉体をもった論理そのものというしかなく、このことを思うと、そういう人間が、人間の仲間に存在したのか、ということで、茫然とする思いである。
 「二十九年間、任務がいそがしかった。いろんなことを考えるひまはなかった」
という意味のことを、氏は、羽田での記者会見で語っている。密林で生存をつづけることも任務であり、ルバング島をくまなく歩いて兵要地誌を作ることも任務であった。それをまじめにやれば、なるほど日々忙しくて、余事を考えるひまがなかったであろう。
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■土佐の長曾我部の遺臣による平等意識

<本文から>
 長曾我部氏は、元親の子の盛親の代になって関ケ原で西軍に属したために没落し、土佐一国をとりあげられ、盛親その人は京都で寺小屋の師匠になり、やがて大坂夏ノ陣で敗将として斬られてしまう。
 一万以上といわれる長曾我部の遺臣(そのほとんどが一領具足で、内実は自作農)は、土佐の山野に残された。
 そこへ、山内氏が乗りこんできた。
 かつて豊臣家の大名だった山内一豊は、関ケ原で武功があったわけでなく、家康の天下工作の謀略をたすけたことで功を買われ、遠州掛川でわずか、五、六万石だったのが、一躍土佐二十四万石の大身代になったのである。
 当然、大量の家臣を新規に召しかかえねばならない。一豊は土佐の現地において長曾我部の遺臣を採用すべきだった。しかしそれを恐怖した。むしろ現地を、恐怖で見た。現地での大反乱を一豊は想定し、上方あたりで牢人衆を見境いなく採用してしまい、土佐へ渡海する前に、二十四万石の陣容をととのえ、それでもって乗りこんだのである。
 土佐の人間風景は一変し、他国者が威張る国になった。
 これに対し、長官我部の表具足たちは一時期、反乱をおこしたが、やがて謀殺その他で鎮圧された。二千、三千という数が殺されたといわれる。
 表具足をふくめ、かつての長曾我部の遺臣は、百姓身分にさせられた。これについての反抗的気分は土佐一国を蔽い、小規模な表、喧嘩沙汰がたえまなかった。二代目の忠義の代になって、贈表具足のなかから主だつ者をひきあげて郷土身分にした。これで、一応はおさまった。
しかし山内家に国を奪われたという意識は、江戸期二百七十年のあいだ、土佐の自作農のあいだで消えないどころか、むしろ強くなった。こういう意識は、江戸期の他の地方の百姓階級にはない。土佐の場合、民族側である百姓たちは自分たちはことごとく長曾我部侍であるという意識の上に立って、藩国家という存在の不合理さを観察する通癖ができた。山内家とその家臣団は、単に進駐軍であるにすぎないのである。
私がはじめて高知に行ったのは十数年前だったが、そのとき高知新聞の学芸部長のF氏と飲んだ。氏が不意に顔をあげて、
 「高知新聞、四古余の社員のなかで、山内侍は三人だけです。みな長曾我部侍です」
 といったのを、表情から声調子まで、いまだに忘れられない。他の地方なら単に百姓であるにすぎない身分を、土佐では長曾我部侍というのである。このことは、元親がやった革命抜きの国民皆兵の意外な結果といってよく、フランス革命がもたらした市民的自尊心に相通っており、またフランス革命のそれに比べて泥臭いながらも平等意識に相通っており、日本の他地方にくらべてきわだった特色といっていい。
 土佐の天保期に、庄屋間で秘密の申しあわせがあった。土佐郡、吾川郡、長岡郡という三郡の庄屋が秘密に談合して密約を結んだもので、それによると、地上に生えている作物は大名の宰領すむところだが大地は天子のものである、という。天子というのは公という観念であろう。さらに百姓は王民である、という。庄屋はその王民を守る職で、もし「御侍中」が百姓と喧嘩をし、これを成敗しようとして庄屋に引渡しをいってきても、庄屋はこれを引き渡してはならない、とする。この申しあわせの思想の中に、自分たちの存在を、封建体制に対して元来自立の存在だという意識が、明快に出ている。江戸の封建体制のなかで、こういう「天保庄屋同盟」 のようなものが存在したということ自体、奇跡といっていい。
 この郷土・庄屋階級から、幕末、藩当局の佐幕方針をはねのけて、いわゆる志士がむらがり出た。たとえば坂本竜馬は郷土の出であり、中岡慎太郎は庄屋の出である。
「本朝の国風、天子を除くほか、主君と云ふものは、その世の名目なり。…猶物の数ともなす勿れ」
 と、将軍や藩主を「名目」とし、物の数とも思うな、と否定した強烈な言葉は、竜馬の死後、出てきたかれの手帳に書かれている。
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