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<本文から>
当初、海軍が、艦砲を外して揚陸させるからお使いください、と申し入れたときも、乃木軍司令部は、
「陸軍でやりますから」
と、ことわってしまっているのである。海軍の艦砲は小さな艦の副砲程度のものでも陸で使えば堂々たる重砲になり得るわけで、いくら砲があっても足りないというこの作戦に海軍からの申し出をことわるのは愚というよりほかない。もっともあとになって海軍の申し入れを受けているのだが、当初から的確な攻撃プランをもっていれば、その実の核心に海軍砲を据えることができるわけで、あとから参加した海軍砲は結果は補助的な役割しか与えられず、十分な威力を発揮できなかった。
第一回の総攻撃は死体の山を築くのみで完全に失敗していたが、それでも敵の要塞の火網をどんどんとくぐりぬけた運のいい小部隊が、要奉の背後ともいうべき望台にまで到着し、岩かげにとりついていたのである。その岩かげの小部隊に対しもっと増援をして旅順市街に突入させれば状況が変っていたことはたしかで、しかもその岩かげの小部隊を指揮していたのは、下級将校ではなく、族団長の二戸兵衛少将であった。かれは戦術眼からみて、自分のこの小部隊を増強してくれればなんとかなると思っていたのに、後方の軍司令部から退却命令がきたのである。
一戸兵衛は、のちに、
「前線の事情にそぐわない命令を軍司令部がどんどん出してくるというのが、自分にはよくわからなかった。しかしのちに軍司令部にゆくにおよんで事情がわかった」
と語っているが、その事情というのは、まず軍司令部は絶対安全圏の後方にさがりすぎていて、彼我の状況にくらかったことであった。次いで軍司令部軍規がみだれていて、各参謀が十分に意見をのべつくすというふんいきから遠かったことであり、さらには、前線の状況を参謀みずからが見にゆくという例が、この軍司令部にかぎってなかったということである。これらのことは攻略戦の最後の段階で児玉源太郎が指摘している。
要塞攻撃は、弱点を見出し、そこに攻撃力を集中するというやり方でなければならない。岩を割るときに条理を見出し、そこに鑿を入れてゆくということと同じである。 |
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