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<本文から> 西郷吉之助、めちの隆盛が、慶応元年のいつだったか、
「会津藩の秋月悌次郎氏からきいた。又助どんには新選組浪人も、はばかっちょるげな。秋月はあれは狂人でごわすか、と申しておった」
と、又助にいった。
「されば西郷どん、どうお答えなされましたと?」
「いや、又助ばかりでない、薩摩はあげなきちがいの集まりでごわす、と返事してお
いた」
西郷は若い連中をあやつるのがうまい。又助はいよいよ自藩公認の乱暴者として町を歩いた。家中の者から、そのこつをきかれると、
「うんにゃ、斬られてやるぞと胸を押しっけてゆけば、存外、斬りもはんな」
と、答えるのが一つせりふだった。又助は喧嘩を売って歩くのではなく、死を売って歩いている。
新選組でも、むこうから又助が来ると、
「狂人が来た」
と、まゆをひそめて、できれば道を変えてしまう。又助ほど高名になってしまえば、密殺などはできそうにない。
その又助が一人で歩いているならともかく、多くは、浄福寺党の連中と隊伍を組んでぞろぞろ歩いているのである。自然、新選組ぎらいの洛中の町人からみれば浄福寺党が新選組と対抗しているようにみえ、それを怖れているかにみえる新選組の態度をひそかに嘲笑する者が多かった。
そのうわさは、土方の耳にも入っている。
(いつかは) と思いつつも、この男の知恵をもってしてさえ、いまだにいい思案がう
かばないのである。 |
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