司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          アームストロング砲

■薩摩浄福寺党の又助は新撰組もいぶかった

<本文から>
 西郷吉之助、めちの隆盛が、慶応元年のいつだったか、
「会津藩の秋月悌次郎氏からきいた。又助どんには新選組浪人も、はばかっちょるげな。秋月はあれは狂人でごわすか、と申しておった」
 と、又助にいった。
「されば西郷どん、どうお答えなされましたと?」
 「いや、又助ばかりでない、薩摩はあげなきちがいの集まりでごわす、と返事してお
いた」
 西郷は若い連中をあやつるのがうまい。又助はいよいよ自藩公認の乱暴者として町を歩いた。家中の者から、そのこつをきかれると、
 「うんにゃ、斬られてやるぞと胸を押しっけてゆけば、存外、斬りもはんな」
 と、答えるのが一つせりふだった。又助は喧嘩を売って歩くのではなく、死を売って歩いている。
 新選組でも、むこうから又助が来ると、
 「狂人が来た」
 と、まゆをひそめて、できれば道を変えてしまう。又助ほど高名になってしまえば、密殺などはできそうにない。
 その又助が一人で歩いているならともかく、多くは、浄福寺党の連中と隊伍を組んでぞろぞろ歩いているのである。自然、新選組ぎらいの洛中の町人からみれば浄福寺党が新選組と対抗しているようにみえ、それを怖れているかにみえる新選組の態度をひそかに嘲笑する者が多かった。
 そのうわさは、土方の耳にも入っている。
 (いつかは) と思いつつも、この男の知恵をもってしてさえ、いまだにいい思案がう
かばないのである。 
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■奇兵隊外人部隊の敬之助の妄動

<本文から>
 それに、敬之助は倉敷の出身である。町年寄でもあったから、町の様子や代官所の内部はすみずみまで知っている。あとは人数さえそろえば、
「隣家の柿を盗むより容易だ」
と、敬之助はいった。
 この一言は、無智で粗暴なだけの隊士の心を激しくとらえた。隊士のなかにはわが名も書けぬ者がいた。そういう者の眠からみれば敬之助の教養、武芸はまばゆいばかりのものだった。その敬之助の鑽仰すべき頭脳が、
 「事は成る」
 と断定するのである。
 敬之助の作戦計画はさらにひろがった。
 「まず倉敷代官所を襲って代官桜井久之助を殺し、軍用金を奪う。ついで、焼きはらう」
 倉敷は一望平坦の野にあるため、ここに籠城して敵を迎えるのは不利である。焼きはらって兵をさらに北方に進め、浅尾に陣屋をもつ蒔野藩一万石を襲い、さらに高梁川(当時、松山川)を北上して備中松山城(板倉周防守五万石)をうばい、ここに籠城して天下の兵を迎え撃つ。
 「備中松山城に義旗をひるがえし、藷藩に勤王倒幕の檄をとばせば十中八九の藩はわれに従うだろう。さらにこの長州藩も別働隊の開戦にひきずられて戦端をひらくことになろう。されば勝つ」
 勝つ、という保証はない。
 が、みな、この山林のなかで寝ても醒めてもこの話をしているうちに、ひどく話に現実感を帯び、勝つということはそれこそ柿を盗むよりも容易なことだとおもうようになった。
 「立石殿、ぜひその快挙をやろう」
 とみながせまり、敬之助も最初は多少の躊躇もあったが、一同がこれほどこの案に熱心だということで、逆に自信づけられ、
 「では実行にかかるか」
 と言明したのは、慶応二年二月である。
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■五条陣屋

<本文から>
 首は、五条の須恵の道ばたに梟された。ならんでいる首が、五つある。代官鈴木源内、元締手付長谷川岱助、手付用人黒沢儀助、手代書役常川庄次郎、それに祐次郎の首。
 捨て札にかかれた罰文は次のようである。一
 「この者ども、近来違勅の幕府の意を受け、もっぱら有志(志士)の者を押えつけ、幕府を朝廷同様に心得、わずか三百年来の恩義を唱え、開闢以来の天恩を忘却し、これがた皇国を辱かしめ、夷敵の助けと成り候事もわきまえず、かつ収斂の筋もすくなからず、罪科重大、よって天誅を加える者也」
 当の天誅組は、それから一月後に諸藩の包囲をうけて討滅された。乾十郎は大和を脱出して摂津の江口に潜居中を捕えられ、元治元年七月二十日、蛤御門の騒乱の最中に六角獄で斬られた。贈正五。
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■追いつめられて心中した新撰組・松原

<本文から>
「おれはこれほど喜んでいる。うそをついているのは苦しかったぞ」
 根は単純な男なのだ。笑顔を残して、隣家へ去った。
 日が暮れてから、もう一度、松原がやってきて、土間の暗がりへ与六を呼んだ。
「打ち明けたぞ」
「どうでございました」
「ところが、お茂代はとっくに気付いていた。おれが事情をいうと、やむをえませぬ、夫はいわば不運でございましょう、と許してくれた。おれは位辟にわびた。しかし、おれは苦しい。打ち明けた以上、まさか、お茂代とは夫婦になれまい」
「ほう、夫婦事はまだやったのでございますか」
「ばかめ。おれはそこまで悪人ではない」
 松原はそうは言ったが、やはり男女の仲は勢いがつけばどう仕様もないらしく、その後与六がそれとなく注意している所では、どうやら二人はその夜を境に出来てしまったようだった。与六は、一方では軽い嫉妬をおぼえ、一方で松原とお苗代のために祝福したいような気持にもなった。
 ある日、屯所へゆくと、例の噂話の好きな南部靴りの武士が寄ってきて、
「松原助勤は、とんでもない手だてで女を寝とったらしいな」
 「はて」
 「とぼけるな。みんな知っている噂だ。しかも、お前がそのことで聞きまわっていたことも、平隊士のはしばしまで知っている」
 (あっ)
 土方が執拗に与六に調べさせたのは、事実を明らかにするよりも、与六を動きまわらせることによって、噂をひろめるためだったのだ。噂の中で、松原を孤立させるためではなかったか。
 「篠原助勤もいっていた。おなじ柔術師範として忠告をせねばならぬと、な」
 (これは、いかん)
 あわてて篠原をさがそうとしたが、運わるく、つい先刻、伏見の奉行所へ出張したぼかりだった。
 慶応二年四月二十日、新選組柔術師範頭松原忠司は、お茂代と心中した。
 土方が捏造した噂がついに松原の耳に入り、それに追いつめちれた結果だった。
 場所は、お茂代の家である。隣家の与六がまず発見した。現場は、健惨な状態だった。松原はお茂代の頸を柔術の手で絞め、そのあと、脇差で腹を割いた。肥満しているために腹を数度捲きさき、なお死にきれずに頚動脈を断って、すさまじい血を壁へとばした。
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■堺烈士の埋葬で儲けた万助

<本文から>
「埋葬はことわる」
 と、妙国寺側はいうのである。当然、妙国寺が境内に葬ってくれるものと決めていた土佐藩側は、ひどく狼狽した。
「当山は後奈良天皇の勅願所で寺格の高い寺でござる。天下の罪人を葬るわけにはいきませぬ」
 土佐藩側は、罪人ではなく義士、烈士と見ていただきたいが、いかがなものか、といったが、妙囲寺側は、
「なりませぬ。鳶田へでも葬られよ」
 といった。鳶田は堺の郊外にあり、罪人の埋葬地になっている。
 (あっ)
 と、万助が走り出た。義侠とか、義憤とかというものでなく、才覚がかれを走らせた。
「申しあげまする。卒爾ながら、埋葬の一件について申しあげたき儀がござりまする」
 土佐藩役人の袖をとり、
 「妙国寺がいやと申すならば、まことに小ッこい荒れ寺でござりまするが、この境内真の宝珠院はいかがでございましょう。院主がぜひぜひと懇望しておりまする」
 といい、走り去って院主をひっぱって来、弁舌をふるって双方に納得させた。宝珠院はあとで多少不安がったが、
 「まあ、見てなはれ」
となだめ、すぐ大坂から子分百人をよび、「宝珠院」と染めぬいたそろいの法被を着せ、埋葬一さいを無料で請け負った。
 さらに大坂中の義兄弟、子分などに町中を駈けまわらせて「堺烈士」のうわさをばらまき、烈士の墓に詣れば無病息災、老人の中気のまじない、婦人の腰冷え、小児の虫封じに効くと宣伝した。
 基は、十一基である。
 万助は土佐藩から請いうけて、十一士の血染めの三方、箕浦猪之吉の指揮旗などを墓前に置きならべ、宝珠院の僧には終日読経させ、かねを鳴らさせた。
 果然、大坂はおろか、河内、泉州の各地から参詣人が殺到し、多い日には五万を数えることがあり、怪我人が出るしまつだった。
 このため宝珠院のそばの宿屋町の通りの両側数丁に線香、供物を売る露店がならび、墓前のムシロには賽銭が山のように積まれ、香煙が数丁ににおい渡った。
 さらに同年の七月には、万助は妙国寺境内を借りて宝珠院による三日三晩の大供養を執行し、境内に仮橋を作って僧侶を渡し、さらに芝居小屋、見世物小屋を興行させた。
 このとき、もっとも人気をよんだのは、切腹中止でついに無用となった生存者九人の大瓶であった。それを九個、境内におきならべ、
 「身を入れれば運がつく」
 と宣伝したから、みなあらそって瓶の口から出たり入ったりした。
 それまで無名の荒れ寺にすぎなかった宝珠院はこのため一躍流行寺になり、巨富を得た。
 立案者の万助は、宝珠院がはやったからといって、一文のカスリもとらず、境内の芝居小屋、茶店などの場所代もとらなかったそうである。
 ただこの男は、賭場をひらいた。
 賭場は、大繁昌で、大坂三郷、河内、泉州の旦那衆があつまり、みな博突のあいまに大瓶に出たり入ったりして運をつけながら、景気よく勝った。
 この寺銭のあがりだけで、万助はひと財産つくりあげている。
 幕末維新の騒乱、事変は、大なり小なり、万助にとって金になった。
 この男は、大正初年、いい老人になって世を終えている。
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■喧嘩で天童藩を斬った馬之助の無心の不思議

<本文から>
 その松吉が、いまは馬之助の腰にまつわりついて、馬之助の立場を救っている。
 (妙なものだ)
 馬之助はおもわざるをえない。
 小女にしても、そうである。空腹の客にああいう態度をとらなかったならば、馬之助の感情も鬱積せず、その鬱積した感情が、馬之助の顔つきを作って、その顔つきがまずあの二人の武士を刺激することもなかったにちがいない。
 武士は小女に斬られたともいえる。
 それに、いつもの馬之助なら、ああいう酔漢の無礼にあえぼ、うまくはずして逃げていたであろう。そういう性分の男だ。
 めずらしく、憤りが内攻していた。それがつもりつもって、あの梯子段で殺気を感じたとき、憤りが爆発した。逆上した、というより、この場合は前後も思慮もなくなり、無心になった。無心に体が動いた。でなければああは神わざのような抜きうちはできなかったであろう。
 馬之助ははじめて無心を味わったことになる心とすれば、馬之助をしてああもみごとに斬らしめた者も、小女ではないか。
 人間の現象は、おもわぬ要素が入りくみあって、瞬間という作品をつくる。この場合、その作品は、やや異常であった。土間で死体になって表現されている。
 (こういうもやもやしたもののなかに、禅機というものがあるのかな)
 馬之助は、すこし考える人間になった。
 この松田事件の始末は、上田馬之助はおかまいなし。天童藩では、二人まで斬られたので表沙汰にしようとしたが、事情をしらべてみると、中川、伊藤に好材料がなかったため、沈黙した。斬られ損であった。
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■理由を勘違いのまま兄の仇討ちをした井沢斧八郎

<本文から>
「小磯、玉出の滝」
 あい、と小磯は痴れ痴れと笑いながら庸蔵の肩に自分の股倉をつけ、ぬるぬると流しはじめたが、不意に湯気のむこうから、
 「おい」
 声がしたかと思うと、湯桶一ぱいの熱湯を庸蔵の横びんにかけた者があった。庸蔵はとっさのことにかッとなり、
 「なにをする」
 「それはこっちのいい分だ。おのれらが垂れながす小水が、わしの足もとに流れておる。なんの遺恨あって、武士の体を婦人の尿でけがすのか」
 それが新選組伍長浄野彦蔵であった。庸蔵は意気地なくもその場に平たくなってあやまり、事は済んだかと思われたが、彦蔵の憎悪はほかにもあった。
 その日、小磯をめあてに丁字風呂にきたのだが、蔵役人の先客があって思いがはずれたのと、その痴戯を眼の前で見せられたことが、この男の度をうしなわせた。しかし風呂でさわげば、隊現によって罰せられることをこの男もよく知っていたから、その夜、庸蔵のあとをつけ、途中走って南御堂の前で待ち伏せた。やがて遊蕩に疲れきった体を駕籠で運んできた庸蔵を、声もたてさせずに串刺ししたのである。
 井沢斧八郎は、そういう事情までは小磯から聞かされなかった。理由などは、小磯のような娼妓の知るところではなかろうと思い、
 「とにかく、武士の意地というべきものであろうな」
 ときいた。小磯は、
 「あい」
 とうなずくしか仕方がなかった。斧八郎も深くきかなかったのは、相手が新選組のことでもあり、兄庸蔵が、危険な反幕思想を抱いていたためであろうと信じていたためである。
▲UP

■井伊襲撃は実行者ももっと大切なことを認識し、冷静に行った

<本文から>
 陸軍国をもって自任するオーストリヤでさえ、明治六、七年まで前装式の鋳物製の砲のみを用い、アームストロング形式の砲にはまったく無関心だった。明治六年、岩倉具現らが欧州を巡遊し、オーストリヤのウィーンで兵器倉庫に案内されたとき、その砲の旧式におどろき「なぜかような旧式砲を使っているか」ときくと「このほうが威力がある」と、オーストリヤの陸軍大臣が断固としていった。ところがたまたまそのウィーンで万国博覧会が開催されており、英国のアームストロング会社と独逸のクルップ会社から後装式鋼鉄砲が出品されていた。ある日、広場でその威力が実演され、オーストリヤ陸軍は一驚し、やっとその翌年にすべての砲をこの式にきりかえた。
 佐賀藩がこの砲を買い入れたのはそれより十笠別であり、製造に成功したのは八年前である。がらばが驚嘆したのもむりはなかった。
 やがて試射の準備がはじまった。すべての装填操作がおわると、砲手たちははるか後方に散った。
 弁蔵のみが残った。
 試作砲の試射は、破裂のばあいを考えて志願砲手がただ一人で点火するのが、各国のしきたりであった。
 その役を弁蔵が志願した。旧主秀島藤之助への感傷がかれにそれを志願させたのか、それとも生来の能動的な性格によるものなのか弁奉目身にもわからない。
 弁蔵は、鳥刺のもつ長い竹竿のさきに油布を巻き、火をつけ、砲側の凹地に身を伏せつつそろそろと竹竿をのぼし、砲尾の火門孔の上に接近させ、ついに火を点じた。
 轟然と砲は嶋噂し、後退し、砲弾はみごとに飛んで炸裂した。
 弁蔵はさらにつぎの砲のそばに寄り、おなじ姿勢で竹竿をのばしつつ竿のさきの炎を空中に舞わせていたが、やがて点火した。
 そこまでは弁蔵はやった。が、そのあと意識がとだえた。気がついて立ちあがってみると、砲がない。それがあった場所に大きく穴がうがたれ、砲車がこつぱみじんになってあたりに散乱し、信じられぬほどの遠い場所に砲身がころがっていた。砲身の背が裂け、裂け口の幣が紙のようにそとへめくれあがっていた。
「弁蔵、無事か」
 と、佐野賢野間(常民)という火薬の専門家がまっさきに駈けてきた。
「破裂いたしましたるようで」
 「うん」
 佐野はおどろいていない。ちょっといたずらっぽく笑いながら、「破裂は砲身をつくった連中の罪ではない。罪はおれのほうだ」
 と陽気にいった。佐野ら火薬方の者が、比較試験をするために第一砲よりも第二砲のほうに発射薬を多く装填した、というのである。
 「そういうわけでございましたか」
 それを知ったとき弁蔵ははじめて背筋に寒気が走るのを覚えた。
 とまれ、試射はひとまず成功した。藩ではこれを、
 「安式砲」
 と呼称し、本格的な製造を開始した。その性能は本家のアームストロング砲より鋼の筋肉がさくいため十分な発射薬を用いられぬという欠点があったが、それでもこの砲一門で従来の砲十門に匹敵する威力をもっていた。
 慶応二年同三年と幕末の政情はいよいよ緊張したが、閑叟とその佐賀藩のみはつねにこの風雲のそとにあった。
 薩長からの働きかけにも応ぜず、幕府からの援助申し入れにも応じなかった。ひたすらに中立をまもり、超然としつづけた。
 慶応四年(明治元年)正月、鳥羽伏見の戦いで薩長が幕軍を敗走させたあと、閑叟はようやく腰をあげて京都にのぼった。
 薩長としては、たった二藩で京をおさえたとはいえ、日本最大の洋式軍隊をもつ肥前佐賀藩を味方にひき入れなければ徳川勢力をつぶすことは軍事的に不可能にちかかった。
 京都滞在中、閑叟が嵐山にあそびに行ったとき、たまたま船あそびをしていた長州の桂小五郎に会い、一つ船で遊んだ。船のなかで桂が懇願した。
 佐賀藩の軍隊を「官軍」の主勢力とすることである。閑叟は(もはや時勢がここまできた以上、惜しんでいても仕方があるまい)と思い、煙管でも貸すような口調で、
 「使え」
 といった。この一言で、官軍の戦力が一変したといっていい。閑叟は「自分は大名でありながら家督をついで以来、商人のごとく一文の浪費も惜しんで財をたくわえ、その財をもって営々と洋式軍を育てあげてきた。自分の眼中、つねに幕府なく薩長なく、あるのは欧米諸国の水準に佐賀藩がどこまで追いつくかであった。しかしすでに老いた。疲れもしている」と言い、満山の花を見渡してから「花も応に老人の頭に上るを羞うべし」という即興の詩を口ずさんだ0花とは、かれの育てた佐賀藩軍隊であろう。
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