三増峠の合戦 永禄十二年(1569)十月

 永禄十二年八月、信玄は約二万という大軍で甲斐を発した。そして十月一日より、北条氏康の本拠小田原城を包囲した。北条氏康が上杉謙信と越相同盟を結んだので、これを放置できなかった。
 しかし氏康は、徹底した籠城作戦でこれに対抗した。武田勢が城周辺に放火して挑兆を重ねても、北条方はいっこうに出撃の構えをみせず、ひたすら軌かなかった。このため信玄は四日、攻撃戦を断念し、撤退を開始した。
 この武田軍の前に先回りしたのは、滝山城主の北条氏照と鉢形城主の氏邦の手勢であった。領内を蹂躙されたまま帰国はさせじとばかり、このコース一番の難所である三増峠で武田軍を待ち伏せした。そして実際の合戦では峠南側の谷が、主戦場となった。
 信玄はまず小幡重貞を津久井城に進出させ、城兵と峠に布陣する北条勢との遮断を考えた。そして馬場信房隊には北条勢を攻撃させ、同時に山県昌景には三増峠の西約一キロメートルの志田峠から側面攻撃を加えた。この挟撃により三千以上の兵を失った北条勢は、撤退を余儀なくされ、信玄は三和峠の戦いを制し、甲斐に凱旋した。

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