備中高松城攻略戦 天正十年(1582)4月〜6月

 天正十年(1582)三月、備中に侵攻した秀吉軍一万七千は、宇喜多勢一万を加えて、高松城に迫った。だが、高松城の構えをみた秀吉は、力攻めの不利を悟り、とりあえず周囲の支城を陥して、高松城を孤立させる作戦をとった。
 五月八日、大規模な土木工事が始まった。近くの農民たちが動員されて、多量の土俵が運ばれた。秀吉は、土一俵の土嚢の運賃に米一升と銭百文を支払ったという。莫大な金品が惜しげもなく支払われた結果、一説にはわずか十二日で堤防が完成したという。
 堤防によって塞き止められてた足守川の水は、ひたひたと高松城の周辺を満たしていき、やがて水位は高松城に迫った。加えて折からの梅雨によって水位は上がっていった。毛利軍は堤防を破ろうとするが、秀吉軍の包囲網は厚く破れない。ついに毛利は講和の道を打診したが、秀吉は毛利側が受け容れられない条件で時間をかせぎ、織田信長の来援をまった。
 しかし、信長は途中の本能寺で明智光秀によって討たれた。翌日の夜に秀吉が訃報を知る。信長の死を知らせる使者を毛利側に入るのを防ぎつつ、講和条件をゆるめ清水宗治の切腹によって和睦をした。

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