安国寺恵瓊(?〜1600)毛利家の使僧

 恵瓊は安芸の守護武田家の出身である。天文十年(1541)毛利元就の攻撃の前に武田の居城銀山城は陥落し、父信繁は討死をした。その子竹若丸は家臣に連れられて城を落ち、安芸の安国寺に入る。竹若丸はそこで出家得度し、恵瓊と号した。永禄十二年(1569)安国寺の住職となり、安国寺恵瓊と呼ばれるようになった。
 そのころより毛利家との接触をもちはじめ、天正元年(1573)には毛利家の使僧として上洛、毛利家を代表して織田信長と交渉を行っている。″使憎″とは、出家し俗世間を離れているので、敵味方の別なく往来できるという特性を使い、敵国との交渉に当たる僧侶のこと。
 このとき信長を見た恵瓊は、「信長の代、五年三年はもつだろう。来年には公家などになるに違いないが、その後、仰向けに転ぶことになろう」と信長の横死を予言している。そのとおり、信長は明智光秀に殺されている。予知能力もまた、軍師の重要な資質のひとつである。
 豊臣秀吉に大名として取り立てられたが、関ヶ原の戦いで西軍側につき、捕えられて処刑された。

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