三国志
 蜀の将

●劉備(Ryu-Bi)(161-223)

 字は玄徳。琢郡琢県に生まれる。前漢の景帝の玄孫。幼くして父は亡くなり、わらじやむしろを作って、生計をたてて暮らしてきた。劉備は身長7尺5寸、両耳が肩まで垂れていて、目で自分の耳を見ることができた。手は膝の下まで届く長さがあり、顔は白玉のよう、唇は紅を差したようだった。学問はあまり好まず、喜怒を顔に出さない。黄巾賊退治のための高札を見てた劉備に張飛が声をかけ、一緒に酒屋にはいる。酒屋では関羽が一人で飲んでいて三人は意気投合する。そして張飛の家の裏の桃園で義兄弟の誓をする。これが有名な「桃園の誓い」である。しかし流浪の身が続いていたときに、水鏡先生や徐庶の勧めで三顧の礼を尽くし、諸葛亮孔明を軍師として迎えた。呉の孫権と連合し、赤壁の戦いでは曹操軍を撃破。章武元(221)年には蜀の地で皇帝の位についた。その2年後、永安宮で病に倒れる。

●関羽(Kau-U)(160?-219)

  字は雲長、もとの字は長生。河東郡解良県に生まれる。当初は琢郡で、桃園の誓いをたて、張飛とともに劉備に仕えるが、曹操軍に敗れ、捕虜となり厚遇された。のちに、劉備のもとへ戻り、赤壁では曹操軍を撃破。荊州の南部を治めた。次第に勢力を拡大していったが、反発も多く、魏の名将徐晃に敗れ、成都に向けて逃げようとしたが、呉に捕われた。孫権は関羽に降伏するように言ったが、関羽は聞き入れず、子の関平とともに首をはねた。義に厚かった事と塩の売買をしていたという話が粉飾され、現在では神様として崇められている。

●張飛(Cyou-Hi)(165-221)

  張飛、字は翼徳(正史では益徳)。琢郡に生まれる。「ひとりで一万の兵を戦うことができる」と称賛されるほど勇猛果敢な将として名高い。琢郡で、桃園の誓いをたて、関羽とともに義兄弟の契りを結ぶ。荊州で曹操の大攻撃に遭い、敗走中に敵の進路となる橋を切り落とし、劉備を守った。のち劉備の呉への進征途上、配下の張達らに殺され、首を呉に持ち去られた。

●諸葛亮(Shokatu-Ryou)(181-234)

   字は孔明。瑯邪郡陽都県に生まれる。普通は字をとって諸葛孔明と呼ばれる。前漢の司隷校尉・諸葛豊の子孫で父は諸葛珪。兄の諸葛瑾は呉に仕えた。劉備に三顧の礼で迎えられ、荊州と益州をとって孫権、曹操に対抗する天下三分の計を提案した。以後は劉備軍の参謀として主に外交や政治面で類稀なる才能を発揮する。弱小であった劉備が皇帝にまでなったのは諸葛亮による所が非常に大きい。
 劉備の死後、孔明は呉との国交回復に尽くした。成都の南で反乱が起きると孔明は、その首領・孟獲を七回捕らえ、七回許した。こうして孟獲を心から降参させた。国家のために北伐を起こし、流言で当面の的である司馬懿を失脚させたが、姜維を仲間にした後、司馬懿は復活。「八卦の陣」を変化させたり、上方谷で火計を使って司馬懿を攻めるが、勝てない。やがて孔明も病気に伏し、五丈源にて孔明は息絶えた。234年8月23日、歳は54であった。孔明は死ぬまぎわ、漢中への退却を指示していた。この策は、見事に司馬懿を欺いた。人々は「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と伝えた。

●ホウ統(Hou-Tou)(179-214)

   字は士元。襄陽郡に生まれる。孔明とならび称される天才軍師である。諸葛亮が臥龍なのに対し、鳳雛と評された英才。初めは周瑜に仕えており、周瑜の死後、遺骸を呉へと送った。魯粛の推挙で劉備の腹心となり、益州征伐に同行する。征伐の途中に敵(劉璋の軍)は白馬に乗っているのが、劉備だと思い込み、いっせいに矢を射かけられ落命した。

●趙雲(Cyou-Un)(不明-229)

   趙雲、字は子龍。常山郡真定県に生まれる。蜀の五虎将軍の一人。もとは公遜サンの配下にいたが、猿紹を防ぐために劉備に随行、そのまま従うことになった。長坂での戦いでは、劉備は曹操から逃るため住民を引き連れ、南下したが追い付かれてしまい、趙雲は乱戦のなか劉備夫人を見失う。趙雲は夫人と阿斗(劉禅)を救うため魏軍に斬りこみ、阿斗を懐に隠し、曹操軍の囲いを突破した。劉備が蜀を攻撃したときには、諸葛孔明、張飛とともに長江をのぼり、成都平定に貢献した。

●黄忠(Kou0Cyu)(不明-220)

   字は漢升。南陽郡に生まれる。劉表に仕えていたが、曹操が荊州を平定した後韓玄の配下となり劉備の長沙攻略により劉備の配下となる。定軍山の戦いにおいて夏侯淵の首をとった。蜀の五虎将軍の一人。劉備が関羽の仇討ちとして呉に進征したとき、無理攻めをして矢傷を受けて、それがもとで死んでしまう。

●馬超(Ba-Cyou)(176-222)

   字は孟起。扶風郡茂陵県に生まれる。西涼の太守・馬騰の長男。父を曹操に殺され、復讐の鬼となって曹操に挑み、配下の猛将許チョと大激戦を演ずる。のちに、馬超は劉備に降り、蜀建国に大きな役割を果たす。劉備が漢中王になり、馬超は「五虎大将」に任じられた。その後、劉備が病死し、その後、孔明の南征中に病死したとされる。

●馬ショク(Ba-Shoku)

   字は幼常。荊州の従事として劉備に従い、蜀に入国。先鋭的な才能を諸葛孔明に認められ、建興6(228)年の北伐では先鋒に任じられた。しかし街亭では孔明の策を用いずに大敗した。馬しょくは、潔くその大罪に伏し、処刑された。

●姜維(Kyou-I)(202-264)

   字は伯約。天水郡冀県に生まれる。幼いときに父を失い、母と暮らした。建興6(228)年、魏の中郎であったが諸葛亮の北伐の際同僚の疑いを受けて蜀に投降。孔明の腹心的存在となる。孔明の死後は西方に軍勢を派遣し、局地的勝利をおさめるが、魏の大攻撃を受けてついに降伏する。蜀は二代で滅亡した。

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