三国志
 呉の将

●孫権(Son-Ken)(182-252)

  字は仲謀。呉郡富春県に孫堅の次子として生まれる。建安5(200)年、非業の死に倒れた兄・孫策の跡を継ぎ、周瑜や魯粛らすぐれた人材を得て領土を拡げ、長江下流域を勢力圏とする。赤壁の戦いに際して、劉備と同盟を結び曹操の大軍を撃破した。荊州の覇権を巡って劉備と敵対し、夷陵にて大勝する。黄竜元(229)年、呉の初代皇帝に正式に即位する。

●孫堅(Son-Ken)(156-191)

   字は文台。呉郡富春に生まれる。呉帝国を築いた孫策と孫権の父。兵法家として高名な孫武の子孫であると自称していたという。後漢末の黄巾の乱に際して、反徒を鎮定し大功を挙げる。後に反董卓の連合軍に参加したが訣別。荊州の劉表を攻撃し大勝する。勢いに乗って攻めるが、劉表軍の伏兵に遭い戦死。

●周瑜(Shu-Yu)(175-210)

   字は公瑾。廬江郡舒県に生まれる。孫権の兄孫策とは義兄弟の誓いをしている。しかし、兄貴分の風をふかせることなく、孫権に対して臣下の節を守った。両者は互いを尊重しつつ、うるわしい君臣関係を結んでいた。赤壁の戦いの勝利も周瑜の働きが大きい。赤壁の戦い後、荊州南郡攻略に乗り出す。劉備も狙っていることを知り、魏の曹仁と一進一退の攻防をし勝利する。周瑜は劉備のため益州を攻めると見せかけて実は荊州を攻める作戦に出た。しかし孔明に見破られ、趙雲や関羽に攻められて絶命する。

●魯粛(Ro-Shuku)(172-217)

 字は子敬。臨淮郡東城県の生まれ。富豪の家に生まれ、財貨を施して親交を深めることを好んだ。周瑜にも兵糧を援助し、これが縁で孫権に仕えることになる。「魯粛密議」で孫権に今後の明確なビジョンを持たせ、曹操との関係については真先に開戦を主張、赤壁の戦いにおいて、周瑜は孔明は殺してしまったほうがよいと言うが、魯粛はあくまでも、劉備との連合を大事にすることを訴え、周瑜に次ぐ功を挙げた。その後は蜀との連携を強めて曹操を牽制、三国鼎立の基盤を作った。

●陸遜(Riku-Son)(183-245)

  字は伯言。呉郡呉県華亭に生まれる。もとの名は議。同輩である周瑜、魯粛より年齢が若く、彼らの活躍期には目立たなかったが、孫策の娘を妻とし、呂蒙の晩年から頭角を現す。山越討伐において数々の功を挙げ、関羽討伐戦、夷陵の戦いにおいて一躍その名を知らしめた。その後も呉の黄金期を代表する人物として軍事のみならず、人事・政策面でも貢献、晩年には丞相にも任ぜられるが、二宮の変では太子派を擁護するも、数々の誣告にさらされ流罪に処され憤死する。

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