魏の将

●曹操(Sou-Sou)(155-220)

 字は孟徳、沛国県に生まれる。若いころから機知に富んでいた曹操は、礼節をものともしない生き方だったため「乱世の奸雄」などと評され、必ずしも高く評価されていない。しあしその力量は他の及ぶところではなかった。董卓なき後、黄巾の残党で兵力を増強、時の帝、献帝を保護し、一気に力をつける。そして、官渡で袁紹を破り、100万の軍勢となった。しかし、赤壁で劉備、孫権に敗北。次に、馬超と戦う。馬超と韓遂の仲を裂き、馬超に大勝。漢中では、張魯を破った。しかし、その漢中も蜀をとった劉備が攻めてきて、戦いに敗れた。曹操は病気になり、66才の生涯を閉じた。詩人としても知られる曹操は魏王として生涯を終える。

●孟達(Mou-Tatsu)

 字は子度。扶風郡に生まれる。はじめ益州の劉璋に仕えたが、後に劉備に従う。やがて孟達は劉備の養子であった劉封と反目し、身に危険が及ぶのを恐れて部下を引き連れて魏に投降した。魏の曹丕は孟達の才能を高く評価していたという。だが、曹丕が死ぬと孟達は周囲から孤立し反乱を起こして斬殺された。

●荀イク(Jun-Iku)(163-212)

 字は文若。潁川郡潁陰県に生まれる。若いころから将来を期待され、卓抜した才能は「王者の補佐たるべき人物である」と評された。猿紹に招かれ任用されたが、彼が天下平定を成し遂げる人物でないことを悟り、曹操のもとに身を寄せる。その後、曹操の覇業のために参謀として活躍し、高く評価される。反面、漢帝国への忠義は絶対なもので、曹操の魏公への昇進を反対したのち憂死。狂士禰衡に皮肉られた事から、かなりの偉丈夫であると思われる。し孔明に見破られ、趙雲や関羽に攻められて絶命する。

●賈ク(Ka-Ku)(不明-223)

 字は文和。潁川郡潁陰県に生まれる。洛陽に乱入した董卓に仕え、その死後、張繍に招かれた。やがて曹操に用いられた賈クは、曹操のために策を練り戦をたびたび勝利に導いた。策謀のためにのしあがったことを自覚していた彼は、ひっそりと暮らし、疑いを抱かれぬようにしていた。魏の文帝にも信頼された賈クは、遂に太尉に任じられた。

●司馬懿仲達(Shibai-Chutatsu)(179-251)

 字は仲達。河内郡温県に生まれる。数々の助言から徐々に出世する。曹操に適切な進言を行い、魏国の内政を充実させた。曹丕の危篤の際には曹叡を補佐するようにいわれている。諸葛亮と示し合わせた孟達の反乱を神速のような進軍で鎮圧した。曹操の死後、諸葛亮の北伐を完全阻止。さらに北の公孫淵の征伐にも成功する。クーデターを起こして曹爽を処刑、丞相となって魏の政治の実権を握った。

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