童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          土方歳三

■土方は年若い将軍を最後まで守ることを決意

<本文から>
「私は、つくづく将軍が気の毒になってきたんです。もう、旗本八万騎といったところで、本気で将軍のことを心配している人間なんかいやしない。みんな、自分のことばかり考えている。わが身かわいさで、本気になって、あの年若な将軍を守ってやろうなんて考えている人間は一人もいない。まあ、山岡さんなんかましなほうでしょう。しかし、その山岡さんでさえ、考え方が擁夷だ。つまり、朝廷と、この京都でうろうろしている志士達と考えていることは変わらない。
 私達は、多摩に育った。多摩には、八王子千人隊というのがいる。千人隊の始祖は、もともと武田信玄の家来だった。それが、織田信長と徳川家康に滅ぼされて、遺臣が徳川家にかかえられた。それが母体になって千人隊になった。千人隊は、ふだんは農業に従事しているが、もし、徳川家になにかあった場合には、まっさきに駆けつけて、将軍を守る役目をおっている。今の千人隊も、おそらくそうするでしょう。私達は、そういう千人隊を見て育った。
 江戸を発つ時から、私の胸に、小さな思いがあって、それが京都へ着くまでに少しずつ育った。その思いというのは、簡単なことですよ。私は、自分の生き方をこう決めたんです。それは、他の人間がどうあろうと、私達だけが、あの年若な将軍を、最後まで守り抜こうということです。
 先生、先生達もおそらくそう考えていらっしゃると思いますよ。それを、私は、あした清河のあのペテンやろうにたたきつけてやろうと思っているんです。

■隊に入る者は、志と能力があればそれでいい。身分なんか関係ない

<本文から>
 募集をはじめて一日二日たった日の昼、交替で飯を食いはじめた近藤勇と歳さんのところに、沖田が入ってきた。
「近藤先生、ちょっとうかがいたいんですが」
 と言った。
「なんだ?」
千枚づけという京都名産の漬物を噛みくだきながら、近藤が沖田の顔を見た。沖田は、等分に近藤と歳さんの顔を見ながら、こんなことを言った。
「応募者の身分がまちまちなんです。いろんな職業の者がいます。どうしましょう?」
 これを聞くと近藤は、歳さんの顔を見た。そして、
「歳さん、どうする? おれもずっとそのことは気にしていたんだ」
と言った。歳さんはにっこり笑った。そして、
「身分なんか、気にするのはよしにしましょうよ。この隊は、どんな身分の者でも入れましょうよ。そんな隊が、日本にひとつぐらいあってもいいじゃありませんか」
 これを聞く上、近藤は笑ってうなずいた。
「賛成だ。総司」
 沖田を見て、近藤ははっきり言った。
「隊に入る者は、志と能力があればそれでいい。身分なんか関係ない」
 沖田はにっこり笑った。
「それをうかがって安心しました。近藤先生も、土方さんもきっとそう言うだろうと思っていましたよ。うれしいな」
本当にうれしそうに、沖田は去っていった。すぐこのことを、ほかの試衛館員に告げるつもりだ。

■隊士を全員武士にする作戦が成功

<本文から>
厳選の末、とりあえず百三、四十人の隊士を採用した。費用は守護職から出るから、心配はない。新たに採用した隊士を庭に集めて、近藤は縁側の上から、こう宣言した。
「われわれは、京都守護職の支配下に入り、京都の治安を守るために行動する。たとえ攘夷派浪士といえども、京都の町の人達に、迷惑をかけ、乱暴を働くような者は、どしどし取り締まる。そして、王城にまします帝の御心を安んじたてまつる。目的をこの一点にしぽる、いいな!」
 同時に、
「この志に生きる者は、今日から、すべて武士として扱う。昔の身分を忘れろ」
 と言った。この宣言は、新採用の隊士達に大きなどよめきをもたらした。彼らは、全員武士になるのだ、ということを聞いて沸き立った。近藤の宣言は効果的だった。歳さんの作戦が成功したのである。しかし、およそ身分を忘れろという宣言をした隊は、当時の日本にはなかった。
 歳さんが、近藤にそういう宣言をしてもらったのは、自分達が農民の出身だったためばかりではない。土農工商という身分制度が、どれほどこの国に生まれた人間を締めつけ、差別し、疎外し、抑圧しているかを、歳さんは、豪農の出身ではあったが、実感として知っていたのである。
 ある場合には、歳さん自身も、自分より身分の低い者をいじめたかもしれなかった。考えてみれば、村人を動員して、多摩川の岸辺にはえた草を刈り取らせるなどということは、やはりその類かもしれなかったのである。というのは、草刈りは、土方家が家伝の薬をつくるための行為だったからである。つまり、目的は土方家の私益にある。そのために、村人を動員していいのだろうか? という疑問は、ずっと歳さんの頭にあった。だからこそ、歳さんは、労働を極力楽しいものにして、そういう疑いを、頭を振って自分から追い出していたのだ。
(京都では、おれは、二度とああいうことはやりたくない)
 というのは、だれにも言わない歳さんだけの考えであった。

■厳しすぎる局中法度で隊を統率

<本文から>
 掟をつくった。
「局中法度」と名づけられたが、それは、してはならないことを決めた隊の法律だ。
次のとおりである。
一、士道にそむくまじきこと
一、局を脱するを許さず
一、勝手に金策をいたすべからず
一、勝手に訴訟を取り扱うべからず
一、私の闘争を許さず
 右の条々に相背き侯者、切腹申しつくべく候なり。
 簡単だったが、厳しい掟だった。決められたことは、
一、武士として卑怯な振舞いをしてはならない
一、局からの脱走は許さない
一、勝手に金を借りるな
一、勝手に訴訟を扱うな
一、個人的な喧嘩をするな
 ということだ。そして、これに背いた者は、なにがなんでも切腹させるということである。切腹というのは、自分で自分の命を絶つ行為である。いずれにしても、この掟に背いた者は、いやおうなく殺されるということであった。
 近藤勇はさすがに、う−んとうなったきり、腕を組んで考えた。あまりにも厳しすぎるのではないかと、思ったのだろう。しかし、歳さんはゆずらなかった。
 「このくらい、厳しくなければ、隊の統制は保てませんよ」
 と言った。
 芹沢一派が文句をつけてきた。
 「そうなにもかも、切腹切腹では、隊士達が怖がって、ついてこないぞ。第一、隊士といったって、みんながみんな武士じゃない。中には商人もいる、農民もいる、職人もいるんだ。そういう連中を束ねていくのには、もっと愛情がなけりや駄目だよ」
 芹沢のこの言葉に、歳さんは言い返した。
 「隊士の出身がバラバラだからこそ、こういう掟をつくるんですよ。それに、局長さん達の方針で、いったんこの隊に入ったら、昔はどんな生まれであろうと、全員武士として扱うということになったはずです。武士は、農工商三民の模範にならなければなりません。そのためには、しつかりと武士道を重んずることです。武士道は、自分の命をどんな時にも投げだすという姿勢によってしか貫かれない。出身を忘れさせ、武士という自覚をもたせるためにも、掟は厳しくしなければ駄目ですよ」
 実をいうと、歳さんは、胸のうちでは別のことを考えていた。別のことというのは、芹沢の言っていることにむしろ共感していたことである。歳さんは、もともとは温かい人間だ。人間が、そんな恐怖だけで生きていけるものではないことは、芹沢に言われるまでもなく、歳さんもよく知っていた。しかし、もし、百数十人の隊士達に、ただ情だけをかけていたらいったいどうなるだろうか。百三、四十人を乗せた船は、情のおもむくままに、流されてしまうのだ。そんなことでは、とても京都の町は守りきれない。

■芹沢達の悪評を消すために沖田・山南が村人と仲良くする

<本文から>
 「芹沢達は、歳さんの強い言葉に、不承不承この局中法度をのんだ。しかし、自分達は守らなかった。あいかわらず商家に行ってはゆすりを働いたし、料亭にあがっては、欽食代を踏み倒した。隊の評判は次第に悪くなってきた。京都の人達は、この隊を、
「みぶろ」
とよんだ。みぶろというのは、壬生村の浪人という意味である。こういう情況を、だれよりも心配したのが歳さんだった。仕事もはじめないうちから、隊そのものに悪印象をもたれることにたまらない。第一、隊は、
「京都市民の生命と財産を守るために」
結成されたものだ。本来なら、お礼を言ってもらわなければならない。市民の支持もいる。その市民の感謝の気持ちや、隊を支持する気持ちを、自分のほうからぶちこわして歩いているのが芹択一派だった。
 歳さんは、苦虫を噛みつぶしたような表情で毎日を送った。そして、沖田総司や山南敬助達に言った。
「しかたがない。埠息な手段だが、おまえ達が、少し村の人達と仲よくしてくれよ」
「村の人達と仲よく?」
 山南敬助が聞き返した。歳さんはうなずいた。
「そうだ。隊の連中は、本当はみんないい人間なんだ、ということを宣伝して歩いてくれ。それが、芹沢達の悪評を消すおれ達にできるせめてものことだ」

■池田屋事変で攘夷派も佐幕派も不安と警戒した

<本文から>
 歳さんの予言は当たっていた。が、単に新撰組の発言権が強くなっただけではなかった。池田屋事変は、日本中にすさまじい騒ぎを巻き起こした。勤王側も佐幕側も、そろって驚きの目を見はった。浪士が集団を組んで、これだけ天下の耳目をそば立てたことはかつてなかった。徳川幕府はじまって以来、由井正雪の乱や島原の一揆のような騒ぎはあったが、いわば食いつめ浪人が、これだけ結束して、ひとつの力を発揮したということはなかった。
 攘夷派は激昂した。佐幕派は、あらためて新撰組の底力を知った。しかし、感嘆したわけではない。むしろ、不安と警戒の気持ちを強めたのだ。

■歳三は孤独になったが将軍家茂を思う気持ちが支え

<本文から>
 歳さんは、次第に孤独になった。今は、隊士の恐れと恨み、そして不平不満のいっさいを自分一人で引き受けているからだ。しかし、歳さんはくじけなかった。それにしても歳さんは、なぜそんなに強い気持ちをもちつづけられるのだろうか?
 実は、歳さんには、胸の底にしっかりと据えたものがあった。今の将軍徳川家茂である。家茂は、まだ二十歳そこそこの若者だが、歳さんはこの若い将軍が好きだった。年齢からいうと二まわりほど歳さんのほうが上になるだろうか。しかし、大坂の天保山から船に乗る時に、
「ご苦労。身体を大事にして、皇城警護に励んでくれ」
と言った時の、あの健気さ、それも自分の気の弱さを穏すかのような悲しみを漂わせながら、一所懸命労いの言葉をかける家茂の気持ちが、歳さんには手にとるように分かった。
(いい人だな。かわいそうで、なんとかしてあげなくては、どうにもならねえ人だ)
 としみじみ思ったものである。

■将軍家茂が死んでも歳三の胸中には生きつづけた

<本文から>
 このような光景を、歳さんは正確に思い浮かべたわけではない。しかし、心情として、若い将軍家茂と若いその妻の和宮とのやりとりが、歳さんにはありありと思い浮かぶのである。二人の心の中を思うと、歳さんの胸はぬれた。胸がぬれただけではない、だれもいないのを幸いに、歳さんは涙を流しつづけた。おそらく、京都へ来てから、歳さんがはじめて流す涙であったろう。
 外を風が吹いていた。真夏である。しかし、風は一晩中屯所の戸を叩きつづけた。歳さんは一睡もできなかった。が、夜が明けた時、歳さんの目からは涙が清えていた。逆にその日の底に、はっきりと強い意志が生まれていた。それは新しい決意てあった。歳さんは自分にこう言っていた。
「家茂さんは死んではいない。死んだのは身体だけだ。家茂さんは生きている。なぜなら、おれの胸の中には、家茂さんがまだはっきりおられるからだ。そうだ、家茂さんはいつまでもおれの胸の中にいる。おれは、この家茂さんを守り抜く。守り抜くために、わけのわからねえ浪士達とは闘い抜く。それが、たとえ長州でも・・・」
 この決意を、歳さんは死ぬ日まで守っていく。もう歳さんは迷わなかった。徳川幕府の家来でこれほどまで、家茂のことを思う人間は、そんなにはいなかった。

■沖田総司との別れ

<本文から>
 「おい総司、おれ達は官軍の先手を打って、甲府城を乗っ取ったよ。幕府は城と百万石の領地をくれたんだ。近藤先生は十万石、おれは五万石もらったよ。おまえには三万石とってあるから、早くよくなってこい」
 と嘘をついた。しかし、近藤も歳さんも、沖田が数日中に死ぬだろうという予感をもっていた。だから、沖田はこの嘘を信じたまま死んだほうが幸せなのだと思った。
 世の中には、死んでいく人間に本当のことを知らせるよりも、なにも知らせないことのほうが、その人間にとっては幸福なことがあるのだ。そういう嘘はけっして嘘ではない。むしろいたわりのこもった真実だ。歳さんはそう思っていた。近藤も否定しなかった。
 「そうだぞ。おれ達は大名になったんだ。おまえはさしずめ家老だ。甲府藩家老沖田総司、頑張れ」
 二人を見返す沖田の目に涙がふえた。それは命の雫といってもよかった。残った命を沖田総司は全部涙にした。沖田も、二人がなにをしにきたかをよく知っていた。しかし、最後まで嘘をつきつづけて、自分をいたわってくれる二人の先輩の温情が、病んで孤独きわまりない沖田総司の胸に、温かいというよりも痛く感じるまでに高まって伝わった。
 やがて、沖田は耐えられなくなったのか、枕に突っぶして、クッ、クツと泣きはじめた。歳さんは近藤と顔を見あわせた。そして、
 「総司、甲府で待っているぞ。よくなったら迎えを寄こす」
 と言った。近藤も、
 「大事にしろよ。必ず治れよ」
 と言った。そう言いながら、近藤はすでに目に大粒の涙をいっぱいにたたえていた。近藤もやさしい男だった。歳さんは、うつ伏せになって、鳴咽しつづけている沖田の姿を、しつかりと目の底に焼きつけた。沖田は歳さんの心の中にいる家茂将軍のわきにひっそりと座った。歳さんはこの瞬間、
(家茂将軍と同じように、おれはこの総司のおもかげをだいて最後まで戦い抜く)

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