童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          退いて後の見事な人生

■新井白石が隠居後に自叙伝を書き現役時代を検証した

<本文から>
 仕事の鬼が人間に戻るために必要だったこと
 新井白石が隠居後に書きはじめた『折たく柴の記』が、自分の家の事を振り返りながら、実は参与した″正徳の治″の内容にこと細かく触れたのは、徳川政治史の一時を告げると同時に、白石自身の辿ってきた道を改めて検証する書でもあったからだ。
 自叙伝としてもすぐれていると同時に、政治史・経済史として徳川政治のある時代をきちんと整理している点においては客観性に満ちていて、自己陶酔的な″私的気分″は少ない。新井白石における隠居力は、この自伝を書くことによって、
 「現役時代の正確な検証」
 を行なったと言っていいだろう。
 その意味では白石は、現役時代を無我夢中で過ごしたために、いちいち立ち止まってその日にやったことや、その年にやったことを振り返っている暇はなかった。それほど彼は正徳の治″の展開に熱を込めていたのである。
 隠居後は、まるで急行列車のように行き過ぎてきた現役時代を振り返り、「時間を遡ってその検証を行なう」という、根気強く、また意義の深い仕事にあてたのであった。正徳の治″が王道政治を目指した徳川政治の一時期を示すものであり、同時に白石自身が、
 「鬼ではなく、人間味溢れる人物であった」
 ということを、別に彼が強調しなくても、自然にうかがい知れる描写がとられている。
 これはあくまでも白石の学者としての合理性・客観性に基づくもので、独りよがりな自己陶酔がまったくないことが、それを立派に検証したのである。
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■如水が息子に重役の悪口を言った理由を告げる

<本文から>
・わしが重役たちの悪口を言ったのは意図的なものだ
・なぜ意図的なものかといえば、おまえの異見会におけるこのごろの議事運営が後退したためだ
・先日も、新規採用者がよい意見を言ったときおまえは、「あの者の意見に従おうではないか」と告げた。これは大きな誤りである
・家臣の限界は意見を述べることはできても決定はできないということだ。決定権限はトップ、即ちおまえ一人の固有の権限だ。あの日、おまえはそれを放棄した
・こんなことでは、黒田家はいったいどうなるだろうかというのが、わしの心情だ。そこでもう一度おまえに決定権を取り戻して欲しい。つまり決定するのは、主一人の権限である、ということを示して欲しいのだ
 ・しかし、今の福岡城の体制ではそれは無理だ。というのは、古い武士、特に重臣は、みんなわしに従っている。おまえの言うことは聞かなくても、わしの指示には従う。こういう状況を壊さなければならない
 ・どこから壊すか。やはり長い間生死を共にしてきた同志的結合のある重臣たちから崩さなければならない。そこでわしは彼らのほうからわしに愛想を尽かせるようにしたかった。そのためこの病床からしきりにウドの大木だの、人がいいの、いてもいなくてもいい奴だと悪口を言いはじめた
 ・悪口が言いたくて言っているわけではない。わしからすれば彼らは恩人だ。言うたびにわしは心の中で「すまぬ、許してくれ。息子のためだ」と謝り続けた
 ・おまえの話を聞くと、その作戦が成功し、彼らはついにわしを見限った。おまえを中心に黒田藩政を行なおうとしている。こんな嬉しいことはない
 というようなことであった。長政はうなだれた。父如水がそこまで深い愛情を自分に注いでくれていたとは思わなかったからである。
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■隠居力の相乗効果−幕末の国防問題

<本文から>
 リタイア組が集まれば、「隠居力の相乗効果」が生まれる
 冒頭で紹介した″三勇″は、天保十一年に斉昭が、世間で評判の高い三人の大名を自分の屋敷に呼んで大いに歓談した時のことを、絵心のある者に描かせたということなのだ。松浦静山・真田幸貫・大関増業などは、それぞれの立場で、
 「ヨーロッパの知識を摂取し、日本国の国防策に役立てよう」
 と考えていた。三人の交流は積極的で、それぞれすでに隠居していたので、斉昭にすれば、
 「国防問題に関心を持つ隠居大名の組合(連合)」
 を作って、やがて命ぜられる「国防参与」の肥料にするつもりだった。同時に、まだまだ不備だと思われる水戸藩自体の海防整備にも役立てようと考えていた。
 こういう隠居さんたちを集めてその知恵を借りるというのは、三人の大名が持っていた、
 「隠居力の相乗効果」
 を狙ったといっていい。それぞれユニークな大名連だ。したがって彼ら三人が集れば、文殊の知恵どころではなく、
 「発想の相乗効果」
 が起こる。これは斉昭個人のためだけではなく、斉昭にすれば、
 「日本の国防力の増強にどれほど役に立つことか」
 と思っていた。
 そしてこのことは別な言い方をすれば、
 「幕末におけるグローカリズムの実現」
 でもあった。グローカリズムというのは、
 「大名家も、単にその管理する地域(ローカル)のことだけではなく、日本国全体のこと(ナショナル〉と、さらに国際的な(グローバルな)問題にも関心を持ち、その解決に努力すべきだ」
 という思想で、現代にもそのまま当てはまる。グローカルというのはグローバルとローカルの合成語だ。
 斉昭自身は、子供の噴から太平洋に接する領地を眺めていて、この観点に立っていた。そして、同時代人の特に隠居大名の中でも、この三人は″グローカリズム″に立脚して、隠居後の生活をのんびりせずに、常に、
 「日本の国をいかに守るべきか」
 ということに関心を持ち、それぞれの立場で努力していたからである。
 そのまとめ役になった斉昭が隠居したのは天保十五年(一八四四)五月のことで、彼はちょうど満四十四歳であった。そして、万延元年(一八六〇)に死ぬ。満六十六であった。しかし、隠居後の年月を彼は残りの生命を、国防のためにこれでもかこれでもかと燃焼させ、炎となって日本の国防問題を幕府に突き付け続けた。まるで不明王が、背後の燃え立つ炎を抱えていたようなものだ。
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■織部焼で秀吉への恨みを鳴らす

<本文から>
 この先見力を、かなり前から織部は持っていた。したがって″関ケ原の合戦″も家康に味方した。平和な世の中になれば、まだ自分を、
 「日本茶道の第一人者」
 と考える大名その他の人々に対して、君臨することが可能だったからである。″堀部焼″は、評判を得た。逆に織部が、
 (少々やりすぎたかな)
と思うような、出来上がった焼き物の一部を割ったり、あるいはそれを本つぎにはって修復したりすることを、人びとは争って求めた。
 (ばかな世の中だ)
と織部は思う。自分の名が世で宣伝され、また作ったものが飛ぶように求められるということはその分だけ、
 「亡き師の恨みを晴らしている」
と思えたのである。恨みを晴らす相手の秀吉はもうこの世にいない。しかし、この世にいるときにそんなことをすればたちまち潰された。そこをわきまえているから
 織部は秀吉が死んだ日の直後に隠居し、
 「これからは、ほんとうにやりたかった事をやってやる」
と決意したのである。彼が本当にやりたかった事というのは、
 「師の志を継ぎ(真の利休流茶道を後の世に伝える)、その派生的な出来事として、師が持っていたであろう秀吉への恨みを晴らす」
ということであった。秀吉に命ぜられた、
 「利休流の茶道をやめて、武家向きの茶道を作り出せ」
 という指示に従って、いうところのひょうげた物″を生み出したのだが、これが逆に本道になってしまった。世の中というのは皮肉なものだ。「ひょうげた」というのは、ふざけているとか、あるいはおっちょこちょいとか、道化とかいう意味だ。
 掘部がこの″ひょうげた物″をつぎつぎと世に出しているのは、彼にすればあくまで
 「秀吉に対する下剋上の実行」
である。が、世の中は、それを逆にとった。織部が作り出すものを、「かぶき精神や、ばさら精神に満ちている。世の中に反抗している」
と受け止めた。そしてそれを歓迎した。こういう状況がずっと統き、織部は心の中では、
 (ちがう、ちがう)
と叫び声を上げ続けた。しかし、世の中がそう受け止めているのなら、それはそれでいいだろうという気持ちも湧いていた。つまり、自分がどう志を立てようと、世の中の受け止め方は別であって、しかし、社会的には非常に受けているのだから、織部にすればかなり目的を達成していたのだ。
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■やり残した事をそのままにして隠居しなかった忠敬

<本文から>
 「どうだろう?松島へ旅でもしないか」
 と誘った。達は眼を見張った。
 「わたくしとですか?」
 忠敬は領いた。こうして安永七年(一七七八) には奥州(宮城県)松島に旅行をした。忠敬にすれば、
 「いずれ隠居する。しかし隠居前に、やらなければいけないことはすべて仕上げておきたい」と考えていた。達との旅行もそのひとつであった。彼は、
 「完全な形で現役から退きたい」
 と考えていた。そして隠居する。隠居後は自分が子供のときからやりたかった、
 「天文学を学んで、これを世の中に役立てる」
 という仕事に就きたいのだ。それには″立つ鳥あとを濁さず″の言葉どおり、やり残した事をそのままにして隠居などしたくない。
 つまり隠居後は、それまでのルーティンワークを引きずって、時折それに悩まされるようなことは一切しない、といういわば、
 「現役時代の総清算」
 を行ないたかったのである。
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■ツイてなかった半生を公的次元にまで高めた鴨長明

<本文から>
 「こんな男に誰がした」
  という真因は武士の登場にあった。それが保元・平治の二乱によって具体的に世に現われた。しかも京都に現われた。京都に生まれ育ち、京都人であることに誇りをもった彼には、突然頭を擡げた武士など、物の数ではなかっただろう。おそらく心の中では軽蔑していた。しかし『方丈記』には、そういう武士への憎悪や怨念のかけらも表現されていない。というよりも、天災などについてはいつ起こったというおおよその年代が書かれているが、しかし政治面において、「いつ・どこで・だれが・なにをした」とマスコミ記者がよく使う″四つのW″については一切触れていない。したがって、もう一つのWである″何のために″ということも探求してはいない。ただ彼は見たり聞いたりした現象を、そのまま描写しているだけだ。だから前に、
 「『方丈記』は、京都を襲った災害のルポルタージュだ」
 と書いたのである。
 これは『方丈記』が、彼自身が半生で相当な痛い目に遭い傷を負ったにもかかわらず、その無常観や憎悪の念、あるいは報復の気持ちをこの書物に込めて、世の中に提供しなかったためだろう。彼自身がその″悟りの過程″を書いているわけではないが、私的(プライベート)な感情を、いつのまにか彼は昇華させて、ドロドロした気体であった情念を、いつのまにか澄み切った気体にまで高めている。その昇華されて気体が一文字一文字となって、『方丈記』の文章に表われた。いってみれば『方丈記』は、
 「鴨長明の私的な情念を昇華させて、公的な次元にまで高めた」
 という作物なのだ。だからこそ、一般性・普遍性をもって、長い年月を経験しても、現代も生き生きとした励ましの書として、わたしたちを勇気づけてくれる。
 したがって鴨長明の隠居力というのは、
 「ツイてなかった自分の前半生を凝視し、あらためて辿って来た過去の意味を探して、公的次元にまで高めた」
 といういわば″隠居後の精神生活″に重点があったといっていいだろう。これも隠居後の生き方のひとつとして、大いにわれわれが学んでいいことのように思われる。
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