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○2009年第1部、2010年第2部、2011年第3部
○時代/明治
○原作/司馬遼太郎(『坂の上の雲』『明治という国家』『司馬遼太郎が考えたこと』)
○脚本/野沢尚、柴田岳志、佐藤幹夫
○出演/秋山真之(本木雅弘、幼少期:小林廉)/秋山好古(阿部寛、幼少期:田中祥平 少年期:染谷将太)/秋山久敬(伊東四朗)/秋山貞(竹下景子)/秋山多美(松たか子)/秋山鹿太郎(松村剛雄) /秋山寛二郎(高橋平) /秋山善四郎(森久保大河)/秋山季子(石原さとみ)/正岡子規(香川照之、少年期:ささの貴斗)/正岡律(菅野美穂、少女期:吉田里琴)/正岡八重(原田美枝子)/大原観山(真実一路)/加藤恒忠(上村祐翔)/広瀬武夫(藤本隆宏)/東郷平八郎(渡哲也)/山本権兵衛(石坂浩二)/八代六郎(片岡鶴太郎)/島村速雄(舘ひろし)/飯田久恒(蟹江一平)/下村延太郎(松尾敏伸)/永田泰次郎(頼三四郎)/沓澤皆蔵(岩永ひひ男)/飯牟禮仲之助(永井慎一)/山本半次(赤木裕樹)/長岡外史(的場浩司)/児玉源太郎(高橋英樹)/乃木希典(柄本明)/大山巌(米倉斉加年)/川上操六(國村隼)/伊地知幸介(村田雄浩)/森林太郎(榎木孝明)/井口省吾(堤大二郎)/藤井茂太(宮内敦士)/遠藤慎司(小林隆)/乃木静子(真野響子)/豊島陽蔵(川野太郎)/伊藤博文(加藤剛)/山県有朋(江守徹)/小村寿太郎(竹中直人)/陸奥宗光(大杉漣)/井上馨(大和田伸也)/明治天皇(尾上菊之助)/藤野漸(宝田明)/柳原極堂(伊嵜充則)/高浜虚子(森脇史登)/夏目漱石(小澤征悦)/陸羯南(佐野史郎)/高橋是清(西田敏行)/竹本都(水野貴以)/山田美妙(中野雄一) |
第1部(幕末〜19世紀末)
第1回 2009年11月29日 少年の国
第2回 2009年12月6日 青雲
第3回 2009年12月13日 国家鳴動
第4回 2009年12月20日 日清開戦
第5回 2009年12月27日 留学生
第2部(1901年〜1904年夏)
第6回 2010年12月5日 日英同盟
第7回 2010年12月12日 子規、逝く
第8回 2010年12月19日 日露開戦
第9回 2010年12月26日 広瀬、死す
第3部(日露戦争)
第10回 2011年予定 旅順総攻撃
第11回 二〇三高地
第12回 敵艦見ユ
第13三回 日本海海戦
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第1回少年の国
260年続いた幕藩体制が倒れ、日本に近代国家が誕生した1868(明治元)年。四国・伊予松山の秋山家に5人目の男児が誕生。名を秋山淳五郎真之と名付けられた。明治維新後、松山藩の財政は底をつき、藩士の生活は困窮を極めていた。とりわけ、大勢の子に養育費がかかる秋山家は悲惨だった。父・久敬(伊東四朗)は生まれた子を「寺へやるしかない」と言うが、兄・信三郎好古が猛反対。そのまま秋山家で養育されることになった。
1874(明治7)年、16歳になった信三郎は日銭を稼ぐ生活に追われていた。秀才で名高い信三郎だが、貧しさゆえに中学に通うことができなかったのだ。淳五郎は6歳になり、近所でも評判のガキ大将となっていた。幼なじみで弱虫の正岡 升(のぼる・後の子規)、その妹でめっぽう気の強い律たちと悪さをしては叱られてばかりだが、好古を慕いあこがれていた。
やがて好古は、学費がかからない師範学校への進学を目指して大阪に旅立った。その後、師範学校を卒業して上京、陸軍士官学校へ入学した好古が松山へ帰省。好古は、自らの仕送りで真之を中学に進学させるよう両親に申し出る。
数年後、松山中学に進んでいた真之(本木雅弘)と升(香川照之)。升は、当時流行りの自由民権運動にかぶれていたが、中学を中退して大学予備門を目指すために上京してしまう。取り残された思いの真之に、再び好古(阿部 寛)が援助の手を差し伸べた。真之は旧旗本の佐久間家に下宿する好古を頼って上京。神田の共立(きょうりゅう)学校に入学する。
ある日、ふたりは英語教師の高橋是清(西田敏行)に誘われ、横浜の外国人居留地に出かけた。そこでイギリスから来た最新鋭の巡洋艦「筑紫」を目の当たりにした真之は、遠い海の向こうの世界へ思いを馳せるのだった。 |
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第2回 青雲1889年(明治22年)、大日本帝国憲法が発布される。学生たちと祝賀気分に浮かれる中、子規(香川照之)が突如かっ血し、病気療養のため松山に戻る。妹・律(菅野美穂)は再び嫁いでいたが、母・八重(原田美枝子)とともに子規の看病をする。江田島から帰省した真之(本木雅弘)が子規の見舞いに訪れ、二人は3年ぶりの再会を喜ぶ。子規は自らの病気を句に詠み、ホトトギスを意味する「子規」を俳号に決めたと話す。
帰省中の真之は、水練用の池で傍若無人な振る舞いをした陸軍兵ともめ事を起こしてしまう。父・久敬(伊東四郎)は内緒で事を収め、憤る真之を「短気は損気、急がば回れ」と諭す。
真之は海軍兵学校を卒業し、初の遠洋航海に出発。そのさなか、兄・好古(阿部寛)からの手紙で久敬が息を引き取ったことを知る。
1891年(明治24年)5月、来日中のロシア皇太子ニコライ(ティモフィー・ヒョードロフ)が襲われる。日本がロシアの侵略を受けようとしているとの危機感を抱いた暴漢によるもので、ヨーロッパの大国ロシアとの間に緊張が走る。
帰国した真之は、日本の港を巡回する清国の艦隊を見学。そこで東郷平八郎(渡哲也)と出会う。
子規は東京に戻り、陸羯南(くがかつなん・佐野史カ)主宰の新聞「日本」に入社。陸の勧めで彼の家の隣に家を借り、八重と律を呼び寄せ暮らし始める。
フランスから帰国した好古は、陸軍士官学校の馬術教官になる。そして児玉源太郎(高橋英樹)の勧めで、以前下宿していた佐久間家の娘・多美(松たか子)と結婚する。
1894年(明治27年)春、時の首相・伊藤博文(加藤剛)の戦争回避の努力もむなしく、日清開戦が閣議決定される。騎兵第一大隊長になっていた好古は、目黒の兵舎で動員に備える。連合艦隊も佐世保を出航、真之の乗る巡洋艦「筑紫」は、朝鮮半島西岸で偵察活動を行い、戦時態勢に入る。
7月25日早朝、日本艦隊と清国艦隊が朝鮮西岸で遭遇、戦闘の火蓋が切られた。 |
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第3回 国家鳴動
1884年(明治17年)。上京から1年が経ち、真之(本木雅弘)と常規(後の子規・香川照之)は大学予備門に合格。塩原金之助(後の夏目漱石・小澤征悦)と出会い、友情を育む。一方、陸軍大学校に通う好古(阿部寛)は、ドイツ陸軍の参謀将校メッケル少佐(ノーベルト・ゴート)を師とし、実戦的な作戦を学んでいた。
春になり、子規の妹・律(菅野美穂)が松山から上京。真之に近々結婚すると打ち明け、「これからは自分に代わって兄を守ってほしい」と頼む。
大学予備門で、子規はおぼえたばかりの野球に熱中。子規と同居生活をはじめた真之も仲間たちと青春をおう歌する。俳句や文学に傾倒する子規に対して、自分の進むべき道は何かと悩む真之だが、しだいに海の向こうに広がる世界を見たいという思いを強くし、海軍兵学校に入ることを決意。兄の援助から自立し一身独立する、という弟の覚悟に好古も賛同し、真之は築地の海軍兵学校に入学する。そこで1年先輩の広瀬武夫(藤本隆宏)と出会う。
1887年(明治20年)春、好古は旧松山藩主久松家の家令・藤野(宝田明)から呼び出され、フランス留学が決まった若殿とともに渡仏するよう頼まれる。しかし日本陸軍が全ての体制をドイツ式に転換しようとしている最中の渡仏は、陸軍における栄達をあきらめることに等しかった。好古は苦悩の末に渡仏を承諾、7月、フランスに向けて出帆した。
海軍兵学校が広島県江田島に移転。休暇を利用して帰郷した真之の立派な姿に大人たちは驚き、子どもたちは胸を躍らせる。真之が帰りの船に乗る間際、律が追いかけてきた。律は真之に自分が結婚した理由と、婚家から離縁されたことを告げる。真之は「女子でも一身独立できる」と律を励ます。
明治23年、パリにいる好古のもとに本国から官費留学に切り替えるとの命令が届く。それは日本陸軍が騎兵建設を好古に託したことを意味した。 |
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第4回 日清戦争
1894年(明治27年)7月25日、日清戦争が開戦。敵艦を追いかけていた巡洋艦「浪速」が英国国旗を掲げた汽船「高陞号(こうしょうごう)」を発見する。船が清国兵を満載しているのを目にした「浪速」艦長・東郷平八郎(渡哲也)は、随航するよう命じる。しかし清国将校が拒否したことから、東郷は「高陞号」を撃沈する。
好古(阿部寛)は大山巌大将(米倉斉加年)率いる第二軍の騎兵第一大隊長として旅順要塞の敵情を偵察し、敵兵配置情報、状況分析、攻略法を司令官の大山に送る。好古の上申書をもとに大山が作戦を立て、第一旅団長・乃木希典(柄本明)らは「半年はかかる」といわれた旅順要塞をわずか1日で陥落させた。
翌年、真之(本木雅弘)の乗った巡洋艦「筑紫」を含む連合艦隊は、清国北洋艦隊が立てこもる威海衛の攻略を始める。「筑紫」も清国の陸上砲台に艦砲射撃を敢行するが、敵の砲撃で戦闘旗が落ちてしまう。真之が部下の花田(須田邦裕)に掲げ直すよう命じた直後「筑紫」は再び砲弾を浴び、花田は柱の下敷きとなって命を落とす。
一方子規(香川照之)は、従軍記者を志願し戦地に赴くが、すでに日清両国間で講和談判が始まっていた。破壊された村々を回るなか、子規は軍医の森林太郎(後の森鴎外・榎木孝明)と出会い、戦争の現実について語り合う。ひと月あまりで従軍を終えた子規は、帰国の途についた船上で再びかっ血し衝撃を受ける。
真之は連合艦隊とともに佐世保に凱旋、解散式の会場で広瀬(藤本宏隆)と再会する。真之が海軍を去るのではないかと心配する広瀬は、ロシアの真の姿を見るためにロシア語を勉強し武官となってロシアに行くという自らの目標を語り元気づける。しかし戦争の現実に直面した真之の心は晴れず、再会した東郷平八郎(渡哲也)に質問を投げかける。 |
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第5回 留学生
従軍から帰国した子規(香川照之)は東京には戻らず故郷・松山へ帰り、松山中学の教師として赴任してきた夏目金之助(漱石・小澤征悦)と同じ下宿に住む。その後、大阪や奈良を回って帰京の途に着いた子規だが、旅の途中で脊椎カリエスを発症してしまう。
満州や朝鮮半島におけるロシアの脅威を痛感した日本の首脳陣は、日露戦争を避けることのできないものと判断し、軍事費を拡大する。
1896年(明治29年)、真之(本木雅弘)は横須賀水雷団第二水雷艇隊に配属となり、広瀬(藤本隆宏)と再会する。同じ年、好古(阿部寛)は陸軍乗馬学校長に任ぜられる。
翌年、海軍省で海外派遣士官の人選が行われ、真之はアメリカへ、広瀬はロシアに渡ることが決まった。留学を控えた真之は寝たきりの子規を見舞う。命がけで俳句を作ると言う子規は、真之にも国を守ってほしいと話し、お互いの役割を全うしようと語り合う。
渡米した真之は、戦術家として名高い海軍予備役大佐のアルフレッド・マハン(ジュリアン・グローバー)を訪ね、直接教えを受ける。一方、ロシアに渡った広瀬は、先に派遣されていた八代六郎(片岡鶴太郎)とともにオペラ鑑賞に出向き、アリアズナ(マリーナ・アレクサンドロワ)と出会う。
まもなくアメリカとスペインが戦争に突入(米西戦争)。真之は観戦武官として、アメリカ艦隊がスペイン艦隊を軍港に閉じ込める世界最初の閉塞作戦をその目で見る。 |
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第6回日英同盟
1900(明治33)年5月、真之(本木雅弘)と広瀬武夫(藤本隆宏)は、イギリス・ポーツマス港で日本への回航を待つ戦艦・朝日を見学した。ロシアに駐在する広瀬はヨーロッパを視察中だった。久々の再会を果たした2人はロンドンの王立海軍大学を訪問。その後、2人は40日間にわたるヨーロッパ旅行をともにする。
清国で義和団が蜂起、各地で外国人が襲われ、鉄道や外国商社、電信所が襲撃される。北清事変のぼっ発だ。8か国が連合軍を組織し、北京在住の外国人救援に向かう。騎兵大佐の好古(阿部寛)も北京に出征する。しかし、同じ連合軍のロシア兵たちが市街地で略奪をする光景を目の当たりにする。
その年の秋、外国勤務を解かれて帰国した真之は子規(香川照之)を見舞い、カリエスの痛みと闘いながら新聞「日本」に原稿を書き続け、俳句と短歌の改革に情熱を燃やす子規に感動する。
連合国と清国との間で北清事変の講和条約が調印された。出席した小村寿太郎(竹中直人)は桂内閣の外務大臣に就任するため、巡洋艦「千歳」に乗船して帰国する。
もはやロシアとの衝突はまぬがれないと考えた日本は、日英同盟を成立させるための根回しを始める。しかし伊藤博文(加藤剛)は戦争を回避しようと個人でロシアを訪問し、日露協商案を提示する。皇帝ニコライ二世は伊藤に謁見(えっけん)して勲章を授けるが、日露協商案の回答は日本の要求をいっさい無視したものだった。伊藤の試みは失敗した。
1902(明治35)年、日英同盟が調印された。広瀬に帰国命令が出て、足かけ6年に及ぶロシア駐在が終わりを告げる。アリアズナ(マリーナ・アレクサンドロワ)は、自らの写真が入ったロケットとイニシャルの入った銀時計を広瀬に渡し、別れを惜しんだ。 |
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第7回 子規、逝く
1902(明治35)年5月、真之(本木雅弘)は海軍大学校に新たに設けられた戦術講座の初代教官となる。理論に裏打ちされた真之の戦術講義と具体性に富んだ兵棋演習に、海軍の先輩までもが聴講生として入ってくる。
高橋是清(西田敏行)と八代六郎(片岡鶴太郎)は、真之を華族女学校の活人画の催しに誘い出す。そこで八代は稲生季子(石原さとみ)を真之に紹介するが、真之は関心を示さない。ロシアから帰国した広瀬武夫(藤本隆宏)が海軍大学校に真之を訪ね、戦艦「朝日」に乗ることが決まったと告げる。
根岸の子規庵では、子規(香川照之)が病と闘いながら俳句会や「ほととぎす」の編集に精を出し、新聞「日本」に「病床六尺」を連載、「草花帖」も完成させていた。
大佐となっていた好古(阿部寛)は、清国駐屯軍司令官に就任。駐屯地で清国の直隷(ちょくれい)総督である袁世凱(薛勇)と出会い、酒をくみ交わして親交を深める。
久しぶりに子規を見舞った真之は、その衰えた姿に胸を痛め、看病する律(菅野美穂)の辛さを思いやる。9月18日、朝から具合の悪かった子規は辞世の句を詠み、その夜遅く息を引き取る。享年三十六。新聞で友の死を知った真之は葬儀には参列せず、遠くから葬列を見守る。
桂内閣の内務大臣として、財政面からロシア戦の準備を進めることになった児玉源太郎(高橋英樹)は、休職して那須で暮らす陸軍中将・乃木希典(柄本明)を訪れる。乃木は児玉から国の窮状を聞き、陸軍への復帰を決意する。
過労が重なり、胃腸を病んで入院した真之を季子が見舞った。同じように見舞いに訪れた律は、その様子を見てひそかに病室を後にする。
4か月後、真之は連合艦隊参謀として佐世保に赴任することになる。日露戦争まであと半年余りだった。 |
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第8回 日露開戦
1903(明治36)年、清国から戻った好古(阿部寛)は千葉県習志野にある騎兵第一旅団長となり、自ら育成した精鋭とともに演習に余念がない。真之(本木雅弘)は八代六郎(片岡鶴太郎)の誘いで、華族女学校の生徒たちによる自転車レースを見学。レースに参加していた季子(石原さとみ)と再会する。7月、真之と季子は結婚する。
9月、好古はロシア陸軍の演習に招待される。世界一の陸軍を見せることで日本の戦意をくじくことが、ロシア側の目的だった。好古はロシアの将校たちとウォッカを飲みながら交歓。騎兵同士、お互いに理解を深める。
10月、日本陸軍の参謀本部次長で対露戦研究の権威だった田村怡与造(いよぞう)が病死。児玉源太郎(高橋英樹)が後任を引き受けた。児玉は乃木希典(柄本明)に対露戦について語り、乃木は児玉のために陸軍に復帰する意思を示す。
海軍大臣の山本権兵衛(石坂浩二)は舞鶴鎮守府司令長官の東郷平八郎(渡哲也)を訪ね、戦が近づいていることを知らせる。そして常備艦隊司令長官の日高(中尾彬)を罷免、東郷を後任に任命する。真之は東郷から連合艦隊の作戦参謀に任命され、艦隊が集結する佐世保に向かった。
宮中では対露交渉についての議論が交わされていた。日本政府は何度か断交しようとするが、そのつど明治天皇(尾上菊之助)が許さなかった。ロシア皇帝ニコライ二世(ティモフィー・ヒョードロフ)は日本に対し全面譲歩することを決断する。しかし、極東総督のアレクセーエフ(ゲンナジー・ベンゲロフ)は皇帝の電報を握りつぶし、日本には伝えない。そのため日本はついに対露開戦を決意。佐世保の三笠にも出撃命令が下る。 |
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第9回 広瀬、死す
1904(明治37)年2月5日、連合艦隊司令長官・東郷平八郎(渡哲也)のもとに封密命令が届けられた。東郷は各隊の司令官と艦長を三笠に集めて開戦の命を告げ、決意の杯をあげる。真之(本木雅弘)は、艦長のお供で三笠を訪れていた広瀬(藤本隆宏)と再会。ロシア駐在を経験した広瀬はこの戦いに特別な意味を感じ、自分にしかできない役目があるはずだとして、それを参謀の真之に考えてほしいと頼む。翌6日、連合艦隊は佐世保港から出撃する。
同日、日本はロシアに対して国交断絶を通告。皇帝ニコライ二世(ティモフィー・ヒョードロフ)は激怒するが、極東総督のアレクセーエフ(ゲンナジー・ベンゲロフ)が電報を握りつぶしたと気づかされる。その2日後、皇帝は御前会議を招集した。
8日、連合艦隊は旅順港の東方44海里にある円島(えんとう)付近に達した。真之らは夜のうちに5隻の敵軍艦を沈め、翌日の決戦を有利に進めるという奇襲作戦に打って出る。翌日、皇帝ニコライは宣戦布告を発する。
日本では開戦を知った律(菅野美穂)が季子(石原さとみ)を心配して秋山家を訪れる。気丈に振る舞う季子だが、律に用心棒になってほしいと頼む。一方、習志野の練兵場では、騎兵第一旅団の旅団長をしていた好古(阿部寛)が来るべき戦闘のために準備を整えていた。 |
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第10回 旅順総攻撃 1904(明治37)年、日露戦争開戦。日銀副総裁の高橋是清(西田敏行)は日露戦争の戦費調達に奔走するが、世界はロシア有利と見ていたため日本に融資する相手を探すのは困難だった。
満州軍総司令官の大山巌(米倉斉加年)と総参謀長・児玉源太郎(高橋英樹)が、東郷平八郎(渡哲也)率いる連合艦隊の旗艦「三笠」に集結。陸海軍首脳による協同作戦会議が開かれる。海軍は、旅順港を陸から攻撃してロシア艦隊を追い出してほしいと陸軍に要請。真之(本木雅弘)は、旅順西北の二〇三高地を占領してそこに観測点を置き、ロシア艦隊を砲撃すべきと主張する。しかし陸軍は旅順要塞攻略を重視し、乃木希典(柄本明)が指揮する第三軍が総攻撃にあたる。
7月下旬、陸軍の動きに反応したロシア艦隊が旅順港から姿を現した。連合艦隊はかねての作戦計画に従い攻撃を開始するが、ロシア艦隊は再び旅順港に逃げ戻り、黄海海戦は失敗に終わる。
8月19日、第一回旅順総攻撃が始まり、要塞の正面突破を敢行するが、旅順要塞はベトンで固められた近代要塞になっていた。日本軍は要塞の鉄壁に傷一つ負わせることもできず、6日間で1万6000人の死傷者を出す壮絶な敗北を喫する。その報に接した真之は、第三軍は作戦目的をわかっていないと激し、直談判に赴くと息巻いて参謀長の島村(舘ひろし)に冷静になれと諭される。
遼陽での会戦が迫るなか、好古(阿部寛)の騎兵団は敵情捜索を行い、クロパトキン(セルゲイ・パールシン)率いるロシア陸軍が大軍を集結させていると報告する。ロシア軍の兵力23万に対して日本軍は14万。砲弾が足りない日本軍は遼陽西部戦線で多数の死傷者を出し崩壊寸前となる。しかし東部戦線の決死の攻撃や好古の提案が功を奏し、クロパトキンは突如全軍を退却させる。
一方、第三軍は坑道と塹壕(ざんごう)を掘り進めて旅順要塞に近づくという正攻法で二度目の旅順総攻撃を行うが、4900人の死者を出し再び失敗に終わる。
10月、バルチック艦隊がついに出港した。 |
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第11回 二〇三高地 第三軍は、三度目の旅順要塞総攻撃を予定。各師団から選抜した三千百余人の白襷(だすき)隊による一大決死隊の突撃を開始する。突撃開始から3時間で全線にわたって攻撃が頓挫、白襷隊が闇に乗じて鉄条網まで迫るが、機関砲火を浴びる。乃木(柄本明)はもはや正面攻撃は無理と判断し、二〇三高地を全力で落とすと宣言する。だが、第一師団五連隊が頂上を占領した直後に反撃され、頂上奪取に失敗する。
総攻撃の開始から6日目、連合艦隊・三笠の艦内では、攻撃中止命令が出るころだとの声が上がる。その声に真之(本木雅弘)は、4万5万の将兵が犠牲になっても二〇三高地はおとさなくてはいけないと激する。
万策尽き果てた乃木の苦境を見かねた満州軍総参謀長・児玉源太郎(高橋英樹)は、旅順で乃木の代わりに二〇三高地をおとすことを決意。大山(米倉斉加年)からの秘密命令を携え旅順にやってくる。乃木と二人きりで話し合った児玉は、一時的に第三軍の指揮を執ることを乃木に了承させ、直ちに重砲隊の移動や陣地転換など攻撃計画を修正する。
12月5日、集中配置された28サンチ砲や重砲がその効果を存分に発揮。死闘の末、二〇三高地の西南山頂を占領した日本軍は観測点を置き、旅順港のロシア艦隊に砲撃を浴びせた。
ロシア艦隊の全艦撃沈が時間の問題だと知った連合艦隊は、直ちに佐世保へ帰港の準備に入り、10か月に及ぶ旅順港の封鎖作戦に終止符が打たれる。
児玉は、陥落した二〇三高地の巡視に向かう乃木にあえて同行せず、陸軍の記録にも自らが指揮権を執ったことは伏せて、単なる陣中見舞いだったと記録させる。そのころロシアは、ぼう大な数の兵を奉天の会戦に向けて集結させつつあった。 |
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第12回 敵艦見ゆ 後顧の憂いを断った連合艦隊はバルチック艦隊との決戦に備える。宮中で明治天皇(尾上菊之助)に拝謁した東郷(渡哲也)は、バルチック艦隊との戦いに勝利すると断言。同席した海軍大臣の山本権兵衛(石坂浩二)を驚かせる。その後、久しぶりに東京・青山の自宅へ戻った真之(本木雅弘)は、母・貞(竹下景子)との再会を喜ぶ。
1905(明治38)年2月20日、連合艦隊が佐世保から出港する。同日、満州軍総司令部に各軍司令官が招集され、クロパトキン率いるロシア陸軍との一大決戦を前に一堂に会する。奉天会戦は戦線100キロに、ロシア側の兵力32万、砲の概数1200門、日本の野戦軍の兵力25万、砲990門が展開する世界戦史上空前の大会戦になった。
激闘が続くなか、好古(阿部寛)は鉄道破壊の命を受け、騎兵団3千を率いて奉天北方に向かう。ロシア側はこれを大量の騎兵団が北進してきたと誤認。クロパトキンは急いで全軍を奉天から退却させる。
4月、バルチック艦隊がシンガポール沖に達する。そこからウラジオストクまでの航路は二通り。対馬海峡を通る日本海コースと、太平洋を回って津軽海峡や宗谷海峡を経る公算も大きい。日本は迎撃する艦隊を1セットしか持たないため、太平洋と日本海の2か所で待ち伏せすることはできない。しかし、この艦隊を全滅させなければ、日本は敗北する。
真之は対馬海峡を通ると想定して哨戒計画を立案するが、バルチック艦隊の行方は杳(よう)として知れない。なかなか対馬に現れないバルチック艦隊に業を煮やした真之は、東郷に艦隊の移動を進言する。しかし「敵は対馬に来る」という東郷のひと言で移動を延期した翌日、「敵艦見ゆ」との電信が旗艦・三笠に届く。真之は大本営への電文に「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と、日本が有利であることを象徴する一文を書き加える。 |
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第13回 日本海海戦 1905(明治38)年5月27日、巨大な艦影が1艦また1艦と三笠の前に姿を現し、いよいよ連合艦隊とバルチック艦隊の戦闘が始まった。連合艦隊は、世界の海軍戦術の常識を打ち破る異様な陣形をとる。真之(本木雅弘)が水軍の戦術案からつむぎ出した、艦隊を敵前でターンさせるという捨て身の戦法だ。
東郷(渡哲也)は、「まず敵の将船を破る」という真之の戦術原則のとおりに艦隊を運用。三笠の砲弾が目標である敵の旗艦「スワロフ」に命中した。2日間にわたる七段構えの攻撃を受けたロシア艦隊は、主力艦をことごとく撃沈、自沈、捕獲され、ついに白旗を掲げて降伏。連合艦隊は、奇跡といわれた歴史的勝利を収める。 そのころ、満州の最前線にいた好古(阿部寛)のもとに母・貞(竹下景子)の死を伝える電報が届く。帰国した真之は、この戦争で敵味方ともに数多くの犠牲者を出したことに耐えられず、その苦しい胸中を妻・季子(石原さとみ)に打ち明けるのだった。
9月5日、ポーツマス日露講和条約調印。日本の国力は限界に来ていて、ロシアと講和を結んだとはいえ実状はかろうじて引き分けたというようなものだった。しかし、国内では新聞が「弱腰の講和」と政府を批判し、不満をもつ民衆が日比谷焼き打ち事件を起こした。
12月21日、各艦の司令官、艦長らが旗艦「朝日」に来艦。連合艦隊の解散式が行われ、東郷が真之の書いた「連合艦隊解散の辞」を読み上げる。
戦争終結からしばらく経ったある日、好古と真之が久しぶりに顔を合わせる。松山の海に船を浮かべ、兄弟で釣りをするふたりの胸に去来する思いとは……。
真之は大正7(1918)年2月4日、満49歳で没した。最期の言葉は「みなさん、いろいろお世話になりました。これから独りでゆきますから」だった。好古は陸軍大将で退役したあと、故郷の松山に戻り私立の北予中学の校長をつとめ、昭和5(1930)年11月、71歳でこの世を去った。 |
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