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吉田稔麿は天保十二年(1841)長州藩の足軽の家に生まれた。16歳で吉田松陰の塾で学び、その勉励ぶりは松陰を感嘆させるほどであった。そのために松陰は稔麿に名を秀実、字を無逸と名乗らせ、一旦国家のために奔走するときがきたら、必ずそなたに役立ってもらうだとう、と約した。
安政の大獄で師・松陰が処刑されると、弔問にも出かけず、自宅の一室に数ケ月も閉じこもり一人で喪に服した。以来、諸方を歴遊して尊攘志士たちと交わるようになる。その後、長州藩が兵庫警衛のために藩兵を派遣したときに、その一員として赴きしばらく滞在するが、急に思い立って江戸へ出奔する。出発にあたってそれまで着ていた衣類を脱ぎ捨て両親のもとに送り、代わりに松陰から拝受した一重の衣を身につけたと伝えられる。
江戸に入っては長州藩の妻木田を頼り幕府の動静をさぐる毎日を送った。三年後、長州藩主の世子が禁門警護の命を受けて上洛したと聞き、急いで京ににのぼり、毛利公の世子に赤心を吐露した謝罪状を差し出した。真情に打たれた世子は稔麿の無断出奔の罪を特に赦し、長州藩士に復した。
文久三年(1863)に長州藩が下関田の浦でアメリカ商船を砲撃する事件などがあり、藩主に罪が被るのを危惧した稔麿は大老板倉に会見し申し開きをし、世子の恩に報じている。その後、一旦は長州に戻るが、元治元年(1864)六月五日、京での池田屋で同志と会合中、新撰組の襲撃を受けた。脱出して長州藩邸に駆け込もうとしたが門が閉じられていたことから門前で自害した。24歳であった。 |
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