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天保9年(1838)萩城下川島庄で萩藩士山県三郎有稔の二男として生まれる。低い身分から抜け出すため少年時代は、槍術で身を立てようとした。21歳のときに久坂玄瑞の紹介で松下村塾に入門した。
文久2年(1862)には士雇に準ぜられる。文久3年(1863)に奇兵隊の軍監になってから活躍を始める。この奇兵隊を率いて第二次長州征伐、そして明治元年の戊辰戦争には、奇兵隊を率いて北陸道鎮撫総督兼会津征討総督の参謀として、長岡攻囲戦に河井継之助らと戦い苦戦、後に会津攻略にも参加した。
維新後は、西郷らの征韓論派との分裂のときには、陸軍大尉の要職にあり、山県の主張した徴兵制によって政府軍を再建した。「明治の元勲」と称された。内閣総理大臣を2回、枢密院議長などを歴任する。大正十一年に死去。
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