寺田屋事件 文久二年(1862)四月二十三日

  薩摩藩主の父・島津久光は、息子で藩主の忠義は年少であったのでその後見役をつとめ事実上の藩主として君臨していた。公武合体論が流行すると自分の意見を幕政に反映させようと、文久二年(1862)三月、忠義の参勤交代の名代となった久光は、藩兵千余人を率いて上洛した。圧倒的な武力を背景に、朝廷と幕府を動かそうというのだ。
 この久光の率兵上洛に、諸国の尊攘派志士は沸き立った。彼らは、薩摩がついに倒幕のために立ち上がったものと思いこみ、これと呼応して挙兵しようともくろんだ。
 しかし、これらの志士のもくろみとはうらはらに、島津久光には倒幕などという考えはまったくなかった。久光は、あくまでも幕府の存在を前提に自分も政治に参画したいということにすぎなかったのだ。入京後の久光は、尊攘夷派志士が過激な行勅をとろうとしていることを知り、自藩の藩士に同調してはならないとの指令を出した。
 このとき大久保正肋(利通)らの誠忠組も上洛していたが、同志のうち有馬新七らは激派は、久光の命令を無視した。彼らは真木らと連結を取り合い、挙兵準備のために伏見の船宿寺田屋に来集する。
 四月二十三日夜、寺田屋に着いた九人の鎮撫使は、有馬らの説得にあたるが、それに応じる有馬らではなかった。しばらく激論がたたかわされたすえ、ついに道島五郎兵衛が「上意」と叫んで抜刀し、斬り合いがはじまった。結局、有馬ら六名が闘死、二名が重傷を負い自刃。鎮撫使側は一名は死傷し五名が負傷した。
 この寺田屋事件で、薩摩藩の尊攘夷派は壊滅状態となり、以後の藩論は公武合体に統一された。

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