公武合体論

 万延元年(1860)三月三日に大老井伊直弼が暗殺されたあと、幕府の実権は老中の久世広周と安藤信正(信睦)によって握られた。この久世・安藤政権が積極的に推進したのが、公武合体運動といわれるものである。
 公武合体論とは、つまり朝廷(公) と幕府(武)が融合合体することによって、両者の対立を解消し、政局の安定をはかろうというものだ。これが成功すれば、尊王派が幕府に反抗する根拠はなくなってしまうわけで、幕府は碓実に強化されることになる。
 そして、公武合体を実現する具体策として、孝明天皇の妹である和宮親子内親王を、将軍徳川家茂に嫁がせるという計画が立てられた。いわば政略結納である。家茂は、かつての紀州家の慶福で、将軍継嗣問題に勝利したあと一四代将軍に就任していた。
 この幕府側からの降嫁 (天皇家の女性が臣下に嫁ぐこと)の申し入れを、はじめ孝明天皇は反村したが、公卿の岩倉具視が説得にあたり、どうにか大公の承諾を得た。ただし、それには条件があり、天皇の悲願である攘夷を数年以内に必ず実行することとされていた。
 攘夷といっても、諸外国と結んだ条約をいまさら破棄することなど現実には不可能であつたが、幕府はとりあえずこの条件をのんだ。いまは、公武合体の実現が何よりも大事であると判断したのである。
 和宮降嫁について、尊攘派の志士たちが黙っておらず、幕府は天皇の妹を人質にとったと非難した。さらに孝明天皇を退位させ、幕府のいいなりの新天皇を即位させようと画策しているとうわさがあり、これを信じた志士たちが久世・安藤を暗殺を計画した。しかし、襲撃人数が6人であり、安藤の護衛が50人とあり、全員が闘死した。もっとも安藤が軽傷を負い、それがもとで老中辞任に追い込まれた。
 安藤が失脚したことで久世も力を失い、幕府主導による公武合体運動は頓挫し、和宮の降嫁も、ほとんど結果的に意味をなさないものになった。
 和宮の降嫁は文久二年(1862)に婚礼の儀式が行われ、二人は政略結婚であったが愛し合った。ところが家茂は慶応二年(1866)に病死していまい、二人が夫婦であった期間はわずか四年半でしかなかった。

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