井上馨 (1835-1915) 長州藩士

井上馨  井上聞多は天保六年(1835)周防吉敷郡の萩藩地侍・井上五郎の次男として生まれる。17歳の時、萩の明倫館に進学する。その後、江戸に赴き、桜田藩邸内の有備館で文武を学び、斎藤弥九郎の塾で剣術を、岩屋玄蔵に蘭学を、江川太郎左衛門に西洋砲術を学んだ。
 文久二年(1862)御盾組の一員として、高杉晋作や伊藤博文らと英国公使館を焼き討ちにする。その後、伊藤博文とイギリスに留学する。元治元年(1864)禁門の変や第一次長州征伐などでは講和のために尽力する。
 しかし、尊攘派に代わって藩政を握った門閥保守派と対立し、山口藩庁での会議の帰途、讃井町袖解橋で反対派の刺客に襲われ瀕死の重傷を負う。運び込まれた自宅ですぐに手術を受けることができたため、奇跡的に一命を取り留める
 慶応元年(1865)高杉晋作が諸隊を率いて正論派が藩政を制した時、鴻城軍総督として参戦する。第二次長州征伐では、芸州口の参謀として活躍し、勝海舟と休戦協定を話し合う。
 維新後、外務大臣、農商務大臣、内務大臣、大蔵大臣等を歴任する。退任後は元老として活躍する。政財界の大立者として君臨。西郷隆盛からは「三井の番頭さん」と揶揄された。1915年、興津の別邸において病死する。

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