橋本左内(一八三四〜五九) 福井藩士

橋本左内  橋本左内が生まれた家は、代々、越前福井藩の医師であった。左内自身も医師になろうと志して、十六歳のとき京都・大阪方面に出、緒方洪庵の門をたたいた。やがて父親が病気になったため家に帰り、医者になったが、安政元年(1854)江戸に行き、杉田成卿の門下生となった。このとき、成卿が一書を与えたところ、左内が一月ほどであげてしまったので、驚いて内容について質問したが、すらすらと答えたという。
 その頃、福井藩主の松平慶永は、幕政の改革を望み優れた人材はどしどし取り立てて、重職につかせていた。安政二年(1855)に左内が郷里へ帰ると、さっそく抜擢して近侍に加えたが、間もなく、ふたたぴ江戸留学を許した。
 やがて松平慶喜が一橋派の中心人物になり、身辺にわかに多忙となると共に、信頼できる相談相手が必要になり、左内を国もとから呼び出され、侍読に任じられた。
 やがて一橋派は、朝廷から勅許を仰いで運動を有利に進めようと考え、松平慶永は橋本左内を京都へ送り込んだ。左内は桃井亮三郎と名を変えて、京都に潜入、活発な運動を展開した。しかし、井伊直弼から報復され、左内は自殺しようとしたが、松平慶永から諭されて思いとどまった。
 しかし、それも僅かな間であり、まもなく安政の大獄がはじまり、橋本左内も捕らえられ死罪に処された。安政六年(1859)十月九日、まだ26歳であった。
 現在、幕末・維新の研究者で、橋本左内を当代随一の理論家として、高く評価する人が少なくない。実際、左内は先駆的で、幕藩体制を否定して統一国家を述べ、優秀な将軍のもとに優秀な大名をおいて政治をとるべしと、具体的な構想を立てていた。

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